MAGIC WORLD - MAGIC STYLE
MAGICWORLDメニュー


..
HOME > MAGIC STYLE > MAGICSTYLEその1


犬のしつけにはさまざまな方法論があります。MAGICSTYLEというのは私流のしつけ方です。MAGICはインターネットがはやり始めたころからの私のハンドルネームです。

昔は強制訓練と言うのか力で犬を押さえる訓練方法が主流でした。最近は打って変わって褒めて育てる訓練方法が大流行です。でも、根本は何も変ってはいないと思います。
犬のしつけの根本になるものは人間の支配欲から来る自分に従わせるという観念であると思います。こればかりは表面でいくら褒めて可愛がって育てましょうと唱えたところで、なかなか打ち破ることの出来ない大きな壁なのだと思います。
元々人間は最高の哺乳類であることに気が付き、多くの動物に対して君臨してきています。それは今も昔も変りません。家畜という制度自体を考え出したあたりから続いている恐ろしく長い人間の歴史なのですから。


このことを前提において、犬と自分が良い関係を築く努力をしなければ、記録に残っているような真実の物語に登場する、または映画の中にあわられる様な理想的な名犬に育ってもらえないものかというのは大げさだとしても、誰からも認めてもらえるような良い犬になって欲しいというのはいささか無理な話だと思うのです。


名犬といわれた犬たちの過去を遡り、その飼い主との関係を調べれば調べるほど、彼らは犬として扱かわれてはおらず人間に対するのと遜色なく接してもらい語り掛けられ、いつくしまれている犬たちがほとんどでした。
もちろんなかには無償の愛によって大きな犠牲を払った後に飼い主がその尊さに気が付くといった事例も多くありますが・私はたぶん犬を犬と思ったことがほとんどないのだと思います。幼い時から接触してきた数多くの犬たちから自然と学んできたバックグランドがあり、それが彼らを友人として受けいれてしまう根源のように思います。親としてかかわるようになってからは、まだ言葉のしゃべれない幼い子だという認識で毎日を暮らしてしまうのですから。


それは犬たちが人間で言うそれなりの歳になっていたとしても彼らが永遠の眠りにつくその日まで変ることはない不変の自分が造ったルールなのでしょう。だからすべての犬を飼う人がこうした気持ちを持たなくてはならないとは言いません。私はこうした気持ちを持って犬たちと暮らしているということにすぎないだけです。


私がこのサイトの中に紹介している事柄の多くは、犬を知っている人にはなおさら理解しがたいであろうルールのうえでこそ成り立つものです。言葉がわかる。話ができる。そんな犬と暮らしたいからこそ彼らの代弁者となりたくて書き連ねています。
それを踏まえたうえで、もし興味があるなら最後まで「ニヤリ」と笑いながら読んでいただければと思います。そして大変申し訳ありませんが、私は私の理論で犬たちと暮らし充分に満足しているので、反論はご遠慮ください。<(_ _)>





たとえば「良い子にしよう」ってどういうことを言いたいのでしょうか?
私は一緒に暮らす家族だから、自分の子供と同じように、パパやママが大好きで、何があっても必ず助けてくれると信じていて、尊敬してくれる子にしたいと思います。犬だからこそ、言葉が伝わる関係になりたいです。


明らかに間違っている行為は悪いことと言う認識があり、それをしないでいられるのが良い子だと思います。でもそれが無理ならせめて親がいけないことだから止めなさいと止めればやめることが出来るなら犬の場合にはそれで十分じゃないかと思います。人間の中学生レベルのように大人がいなくても自分の判断でいけないことはしないでいられる程度などと高望みはしていません。犬には完全なる禁止として教え込むことはできますが、私の知っているものは恐怖心からその行動を起こさないように刷り込ませるものしかありません。そんな方法を使うくらいなら自分の時間と知恵を犬たちのために使ったほうがましです。2・3歳児の幼児が見ていない時もいけないことをしないでいるとしたら単に興味がないからです。興味がないことがよいことではなく興味を持ってもやらずにいられることは理想ですが、人間でさえ幼児には無理なのですから犬だったらなおさら無理だと判断しています。


理不尽な命令にまで従う必要はないけれど、親(この場合飼い主)の言うことは聞ける子であって欲しいということに尽きるのです。


自分の子供に置き換えて言うなら、何も有名大学に入って一流会社に就職してくれることが良い子だとは思っていないのとおなじです。これは犬なら、何かの大会に出て素晴らしい成績を収める犬だけが良い犬だとは思っていないということと同じなのです。


だから、脚側行進は飼い主のそばをはなれずにいられればヨシと思います。「握りこぶし一つ分あいた間隔で横に付く」なんって言いません(^−^)もちろん競技会とかに出るなら練習して理想の形に近づけて挑むのは当然ですが、普通に暮らすのに、ぴったり横にいなければならないなんてナンセンスだと思っているから。。。お散歩で多少こっちに行こうよとひっぱることは悪いことだという認識はないですし、ねぇひっぱらないでといったらあぁごめんねと傍に戻る子なら良い子だと思うわけなのです。
たまに飼い主の傍を脚側行進そのものに、わき目も振らずに歩いているペアを見かけますが、「何が楽しいのかなぁ?」といぶかしがって眺めているのが現状です。(苦笑)反対にまるで幼子を連れて散歩するようににこやかに犬に話しかけながら楽しそうに歩くペアを見かけると心が温かくなり幸せにしてもらっているのだなぁとうれしくなるのです。


目的があったらそのために努力するのは当然ですが、毎日の生活の中で犬の行動を形で判断するのは、子供に対して勉強が出来ることで頭が良いということだと勘違いすることに等しいと思っています。人間に対してあの人は頭の良い人だねと言うとき、その人の学力を指して言っているでしょうか?私が思う頭の良い人とは、相手が言っていることをすばやく正しく理解・判断でき、言われたことを正しく行動できることだと思うのです。学歴とか学力とかでは判断できない部分です。頭が良いという表現はそぐわないのかもしれませんが、生きていくことにうまく対応できるってことを身につけているってことで、悪知恵で世渡りが上手というのともまた違いますが(笑)。


犬を良い子にするというのはまさしくこの事以外の何物でもありません。生きていくための群れ(家庭)のなかで正しくリーダーに従い、群れ(家庭)のルールを守っていけるように育てる。これがいわゆるしつけです。つまり訓練といわれるものとは大きく違いがあるということになります。


人間の子供は親が教育出来なければ昔は近所の人が教えてくれました。学校なんかサボって公園で遊んでいようものなら、知らないおじさんに怒鳴られたものです。けんかなんかしていても近所の大人が誰かしら止めに入ってけんか両成敗とか言われてゲンコツをもらったものなのに・・・最近じゃ、その素晴らしい行為さえも「余計なお世話」といわれるようになり、問題を起こしたはずの子供の親が大騒ぎし、いつの間にか注意したほうが悪くなるなんってこともあるようです。学校関係でも非常識な親が問題視されていますが、社会的傾向とはいえこうしたままでいいのかは甚だ疑問を残します。
たばこを吸っている者への注意や学生同士の集団によるいじめなどになると、警察まで「その場は逃げて通報してください」なんていってる始末です・・・大人は見知らぬものは子供でも警戒し、社会的に非常識なことすら見て見ぬふりをして自分には関係のないことだったら見物人になり下がっています。相手が小学生や中学生でこれだもの話にならないよなって思います。


こんな世の中ですから、せめて自分の犬くらい自分で正しく教育したいと願うわけです。
犬の場合には教えるのは飼い主しかいないから余計に差がつくのでしょう。飼い主の認識次第で犬はどうにでも育つからです。ある意味では人の子供よりも純粋に育てられるけれど、決まり事が間違ったところからのスタートだったら宗教のようにこれが正しいと思い込むことでしょう。ごくごく普通に犬と暮らすことは、実は人と暮らすことに等しくてこれが犬と暮らすことの基本だと思っています。





子犬を見に来る人たちの反応はさまざまです。可愛いのは判ります。私だって毎日見ていたって飽きないし目の中に入れたって痛くないよと思うくらい可愛いのは確かですから。人間の赤ちゃんも同じだと思います。
でも不思議なことに人は、人間の赤ちゃんは脅かしたり、怪我をさせたりしないように気を使うのに、仔犬にはそういう気遣いが少ない人が多いです。


「きゃぁ〜可愛い〜!」と大きな声をあげて子犬に駆け寄って行ったらびっくりするとは思わないのでしょうか?静かにおしっこをしているのに、ことさら大きな声を張り上げて「良い子でちゅねぇ〜!」って褒めるつもりでも、相手がびっくりしちゃうとは思えないのでしょうか?
捕まえて頬ずりしたら子犬はおしっこをしたのが良いことだったなんて思うと考えているのかすごく不思議です。人の赤ちゃんだったら理解できないでしょうから。


子犬の心臓がバクバクしちゃうようなことを人は簡単にやってしまいます。自分を相手が認識していなくたってそんなのかまったこっちゃないっていう行動は、呆れさせられます。初めて会う人間の赤ちゃんを見せてもらいに伺うときに大きな声を張り上げたり、嫌がる赤ちゃんを無理に抱いたりしたりはしないはずです。


人見知りしないように泣かせたりしないようにそっと穏やかに赤ちゃんには接するはずです。大丈夫かなぁ?泣かないかな?おばちゃんは怖くないよ、いいこだね、かわいいねってなだめながら接するはずです。それでも相手が怖そうな顔をしたら無理に抱いたりしないでしょう。毎日たくさんの時間を一緒に過ごせないパパの顔さえ赤ちゃんは覚えられません。自分の子に泣かれて悲しくなるというパパさんの声が聞こえてきそうです(笑)ましてや小さな赤ちゃんと一緒に育った経験もない小学生などに赤ちゃんは抱かせたりしません。


でも仔犬はどうでしょうか?


子供は仔犬を抱きたがります。子犬はぬいぐるみみたいにかわいくてふわふわですから当たり前です。でも実はおもちゃではないんです。ぬいぐるみのように手が離れて落としてしまっても壊れないようなものではないのです。子供は立ったまま抱いて歩くってよくあることです・・・暴れて落とすかもしれないのに何故抱かせられるのでしょう?大人だって抱きなれていない人だったら、暴れられたら手を放して落としてしまうこともあるくらい危ないというのに・・・





こういうのって私にはあまり理解できないことです。だから抱かせるときは自分がそばにいてみていられる時しか抱かせないし、ましてや立って抱くなんて言語道断ですから子供自身に「座りなさい」と行動を指示します。それがたとえ子犬のオーナーになるお宅の子どもさんでも同じで、申し訳ないが必ず座っていなくてはいけないと言わせてもらっています。犬は子供のおもちゃじゃないし、きちんと育ててあれば子供にだって扱うことができるようになり良い友人になる生き物です。何故それをしてからに出来ないのか?子供が言うままに子犬を与え問題行動につなげてしまうことはとても多いのにと思います。


情操教育のために子犬を飼うなら、それは子犬の世話をさせることで情操教育になるのではなく、幼い自分たちよりも弱いものを親がどう取り扱うかを子供は見て育ち教育になるのだと思っています。だから親の行動が一番問題なのであって、犬を飼うことで子供のためになるのではないと考えています。


子供が犬の世話をすると約束したからといわれてしまうとついつい苦笑いになってしまいます。結局最後は子供がもらってきた犬なのに私が世話をしてるのよと嘆く友人に、「最初から当たり前の事なのに何を言ってるんだか」と思い、「下の子の面倒を上の子が見ないと嘆いているのと同じだわ」と答えると大半の人ははっとした表情になり「そうよね、モノじゃないんだから子供が完ぺきにやってあげられるはずないわね」と答えてくれます。


犬を迎え入れることは一つの家族に小さな赤ん坊が生まれてきたのと同じだと考えてほしいのです。そう思えれば世話はだれがするのが一番的確か、親は子供よりも立場が上でなければしつけもできないことは周知の事実ですから幼い者が幼いものを育てるのは通常は難しいと考えるのが筋なはずです。家族だって、幼い子供・もしくは赤ちゃんをその子よりも少し大きい子だからと言って世話をさせたりはしないでしょう?大人に近くまで成長し信頼に値する行動が伴っていればこそ任せることはあるかもしれませんが(笑)


親がやることを手伝わせてこうするのだよと教えていくことはあっても、責任を持つことへの教育だとしても観点が違うと思います。仔犬はどんなに時が立って大人(成犬)になっても、人間で言う幼稚園児と変りません。多くの人は犬を誤解し、大人になった犬に多くのことを求めすぎていると思います。犬たちは死ぬまで幼稚園児の延長であるという認識さえあれば、もっと彼らの声を聞こうと思うだろうしもっと優しく接してあげられるのではないかと思います。


幼稚園児に冗談は通じないし、からかってしまうと本気になるのはごくごく当たり前のことだから、大人はそれを踏まえて幼い子に接しているはずです。犬が幼児と同じなのだという認識さえあれば人はもっと犬に対して優しくなれるのではないでしょうか。


犬をからかって楽しいのは人間だけであり、犬はちっとも楽しくはなく、ただただ理解不能に陥るだけで、わざわざ混乱させることの必要性は犬の場合にはまったくといってないはずです。幼い子供が悪い事をしたときに大人はその子供の体の自由を奪うホールディングという方法を取るでしょうか?はがいじめというやつです。最悪なことにこの方法は犬の飼育書には多く書かれている方法なので、初めて犬を飼う人は「なるほど」と感心しその方法を取り入れて大きな間違いを犯します。マズルコントロールも同じような部類です。


犬からしたら飼い主の人間の大きさはジャックと豆の木に出てくるような巨人に当たるはずです。元々、存在だけでも犬からしたら驚異的であるにもかかわらず、大きな声でどなられたり、物のような手で叩かれたりしたら即座に萎縮するほど恐れるというのに、そんなことはお構いなく犬がしてはならないことをしたからと、体を押さえつけ馬乗りになったり、床に顔を押し付けたりしたら、犬たちはどうやって人を信頼できるでしょうか?


愛すべき飼い犬にどんな心理状況を起こすかなど考えもせず・・・安易に状況判断をせずに方法論のかたちだけを持ち込む危険はとても大きいと思います。もし、自分が自分の何倍もある大きな生き物に、体の自由を奪われ罵声を浴びせられたり、大きな声で怒鳴られていなかったとしてもどれほどの恐怖を感じるか考えて欲しいと思います。


犬が威嚇行動を起こしたり、噛むという行為をすることの多くの意味は、追い詰められて発生することが多いからです。
窮鼠猫を噛むのたとえに等しいのです。ですから専門家でない場合には安易に簡単に出来そうに思える即座に効果があるというような方法論を使うことは危険です。こういうしつけ方で犬の行動を制御して育てると、犬は飼い主の機嫌を伺いいつも圧力がかかりそうになるということを聞くような子になってしまいます。聞いていればまだよいですが、犬が限界を感じ威嚇行動にはいった時に飼い主がその行為(歯をむいたり、吠え掛かったり噛み付くなどの行為)にひるむ事が多いため、手のつけられない犬と変わってしまう事例は多いのです。最悪のパターンは飼い主側からのアクションがないのに犬が攻撃を楽しむまでに至ってしまうことです。


本来なら穏やかで優しい犬であるはずの子が、育て方、しつけ方の間違いによって穏やかに暮らせるはずの時間を苦しく辛い問題行動のある犬に育てることになっててしまうことはよくあることで、勉強熱心で一生懸命な真面目な飼い主さんに特に多く感じます。何も知らず自然体で犬と暮らしてしまう人には少ない現象であることがしつけにかかわる大きな問題点であるでしょう。もし自分の思うように犬の変化が現れないのならその方法は犬が受け入れたものではないのだと早々に判断し即刻中止したほうがよいでしょう。そして犬へのアプローチを変えるべきです。それが犬・ひと、互いのためであると思います。





可愛いからといってけじめをつけない育て方は一番始末が悪いです。(苦笑)犬も人間も子供に教えなくてはならないことはたった2つしかありません。「いけない」と、「良い」たったこれだけです。我家のルールはこの2つしかありません。すべてはこの言葉の意味が理解できるだけで何とかなるのです。


吠えても騒いでいてもいたずらをしても、彼らの行動を止めるには、「いけない」「駄目」「止めなさい」「静かに」「ストップ」「NO」こんな言葉でことは収まるようになっています。これは幼いときから、手を噛めば「痛い」「いけない」とその行動をその場ですぐに止めさせてきているからで、吠えることも同じくだし、部屋の中を駆け回っていても同じことです。その場その場で止めさせるときの行動は違うのは当たり前ですが走り回っている仔犬を止めるならてじかに来たときにすかさず抱き上げてしまい、「もうおしまい、止めなさい」といって興奮状態が治まってからおろせばたいていは走り回らないものです。
それを捕まえようと追いかけたり声をかけ続けたりすれば犬は遊んでくれていると勘違いし、ますますパワーアップしてエキサイトしてしまいます。吠えている行動にしても『ワンワン』言っているにもかかわらず、『いけない、止めなさい』を連呼したところで最初から「わかりましたやめます」と即座に簡単に収まるはずはありません。吠える犬の傍に行き、少し低くどすに聞いた声で『静かに!』とにらみつければたいていの犬は止めます。やめなければ他の方法を探し必ず行っている行動を止めなければ意味がないのです。


犬の行動学で知られている方法論中にあるものを使えば効果があることも当然ですが、実際にはリーダーとして認められていなければ言葉だけでの制限が難しいのは当たり前です。まだ何も理解していない子犬は母親から多少の恐怖や、痛みを伴う叱責を受けて行動を制限することを学んでくるわけですし、その中にはどすの利いた声での脅しに近い、唸り声を使って相手の行動を阻止するというものもあるわけです。それを学習して育っていない子犬ならこれだって効果があるはずもありません。
家族の一員になる前から学んできたものも多く関係が出てくる部分でもあり、本能に刷り込まれている部分と学習による刷り込みとはまた違うことを知っておくことも必要でしょう。飼い主の犬に対する普段からの行動と繁殖下で子犬が育つ状況に犬としての学習ができているかどうかが伴っての話がまず第一になります。


犬は自分のしている行動そのものが否定されているのか肯定されているのかを飼い主の行動で判断します。だから否定するなら否定しているとはっきり判る行動を犬にとってやらなければ問題は収まらないのは当たり前なのです。日本人はここら辺が不得意といわれており、海外の人に比べると違いが出てくるのかもしれませんが、犬には白黒をはっきりつけて伝えることを知っておけばできないことはありません。


ほんのちょっとの努力で改善できることは沢山あるのですから、子育ての期間にきちんと教えておけば良いのにと思うことが沢山あります。この否定する行動以上に大事なのは彼らのやっていることが良いことであれば褒めてやるという肯定する作業です。これは否定した数の十倍は必要だと考えておくとよいと思います。そしてそれは家族の一員となったその日から1・2カ月のうちに覚えさせられる簡単なことです。


人は犬が何かをしないと褒めませんが、家の中で静かにしていることだって褒めるの充分値することのはずです。それを褒められるようになった飼い主は少ないです。褒めるという行動は大げさに大きな声で大きなリアクションで犬の興奮性を高める必要はないことですがそれすら理解できていない人が多いのが現実です。


静かな声で、『イイコだね』『偉いね』と声を掛けてあげることが大事で、近寄ってくるなら頭のひとつでも撫ぜてやれば良いのです。寝ている犬が飼い主を信頼して安心いたらそっと体をなぜてもうっすら目を開けてまたすぐそのまま眠りに入ります。言葉をかけないほめ方だってあるのです。


犬を褒めろというと、人がするものにはあまりに大げさなのには驚かされています。とにかく犬を撫ぜたがる人が多いです。テンションが低い子ならそれも良い結果をもたらすことは少しはありますが、犬は突然触られたり、立てられる大きな音には恐怖を感じる動物です。
犬の理解を得ないで人だけが騒ぎ立ててそれでほめているつもりだったとしたら犬には理解不能の動きをする相手としてしか認識されません。幼い仔犬を、またおとなしい成犬を、褒めているつもりで驚かせないで欲しいと思っています。
犬に合わない褒め方をして育てるとどこかびくびくした子に育ってしまいますし飼い主を信頼しない子になってしまいます
。。。


毎日楽しくお外に行くお散歩だって何十回となく褒められる言葉をかけるチャンスは作れるのです。リードが緩めて歩けたら、顔を見上げたら、そこで止まってと言って止まれたら、いい調子で上手に歩けているだけでも…。そのたびに「いいこだねぇ〜」とかそれぞれの肯定の声をかけるのはそんなに大変なことじゃないはずです。私はすごく短い肯定の言葉を使って一つのことで2回伝わるように声かけをするようにしています。





誰しも自分の子が可愛いのはあたりまえですが、犬は特にどこかの誰かの犬と比べて見ることが多いようです。比べたって何がどうなるものでもないと思いますが、人によってはブランド品の品比べのように、車のグレードの違いを見定めるかのように、相手の犬が何がどのくらいできるのか、あの子はこれが出来ないけどうちの子はこれはできるとか、走るのが早いとか遅いとか性能が高いとか低いとかって比べてみています。それがどんな意味があるのか私にはよく理解できませんが、飼い主の自尊心を満足させる何かがあるのでしょうか。


飼い主が犬の気持ちを理解し、犬にとって良い関係を築いていなくても、普通に家庭犬として可愛がられて生活することは充分に可能であるし、数年を付き合った多くの飼い犬と飼い主の関係はお互いに相手への理解が出来上がり、こういうものだという感覚がつき、そこそこうまく暮らしていけます。通常の家庭で5歳以上になった犬との暮らしが穏やかなものが多いのは犬が年をとったからではなく犬自身が飼い主をよく知っているからです。


自分は犬の気持ちを理解して暮らしていると自負している人の多くはごく普通の飼い主に多く、暮らしていく中で問題もなく、可愛くて良い子で・・・それで充分だから、それ以上は求めないものです。犬との暮らしはそれくらい本当は簡単なことで時間をかけられればたいていは良い関係ができ、それが人と犬の歴史の原点です。犬と暮らすことがとても難しかったらきっと今のような人間と犬との関係は出来上がらなかったでしょう。


普通の人が多い中で、一歩踏み込んでもっと犬と理解しあいたいと望んだときから、普通の飼い主とそういうことを望んだ飼い主とは犬へ持つ期待の高さが違っているはずです。そういう人たちが増えてくれることは犬達にとってはとても喜ばしいことであるし、人が持つ犬との間にかかる一枚のベールを剥がせたときに何かが変り始めるのだと思います。変わり始めた人にしか犬を理解してからの時間の素晴らしさは理解することは不可能です。何かにチャレンジする喜び、犬が自分に伝えようとすることがつかめる喜び、共に同じ事に向かって相手を気遣いながら何かを達成する喜び・・・


ごくごく普通に犬を愛し暮らすことと、もっと理解を深めようと努力していくこととは同じであるはずはありません。
得てして、理解しようともがいていく人を外側からしか見ることのできない人たちは、自分の飼っている犬よりも劣っているからそうしているのだと思う人が多くそう解釈した態度を見せるのは私は好きではありません。
私は、上を目指す人が好きです。犬のために一緒に何かを頑張れることは犬を理解して行うのであればすべて素晴らしいことだと思っています。犬の短い寿命を自分の長い人生の一部として分かち合って生きたいからこそ、もっともっと有意義に彼らと過ごしたいからこそ、努力を怠らない人は偉いと思っています。


だからこそ人の犬と比べて欲しくないと思うのです。。


親バカまるだしで両手放しで自分の愛犬をほめたり、応援できたりすることは決して他人からとやかく言われることではないですし、気にするような問題にはならないことです。頑張ったことを頑張ったと評価し、かわいい子を可愛いと評価し、優れた能力を持つ犬に期待することは相手が人だってすることです。ねたみなどで嫌みを言われても知らんふりすればいいのです。期待もされないことのほうがずっと悲しいのですから。
相対評価
大会などで自分でチャレンジして結果として得て来れば良いもので、違いは自分だけの絶対評価ではなくなったところです。
絶対評価
その人が出来ることをどれだけ努力してきたかということで、それがあればいずれは他からの評価を得る相対評価で結果に繋がってくるでしょう。
愛犬の持つものを信じた人だけが結果を得られる相対評価をいつの日かきっと自分のものにする日が来るのだから、身近な犬と比べてああだコウだと悩んだり、自分の犬のことをよくわからない人にいろいろ言われたとしても気にするのはナンセンスという物だと思います。^m^
だって自分の愛する大事な犬のことなんですもの、親バカ万歳、犬バカ万歳でいいじゃないですか。私はいつもそう考えています。だってうちの子は一番ですもの


..
MAGIC WORLD | シェルティー子犬情報 | MAGIC STYLE | シェルティーワールド | 犬の勉強部屋 | 犬の病気と予防 | 犬の老後と介護
..
MAGICファミリー | ドッグスポーツ | 我家の犬たち | 虹の橋 | BOOKS | SHOP | HOME
Copyright © 1999-endress by MAGIC (Sheltie MAGIC). All rights reserved.
このHPの写真、内容、絵、素材などは無断転載、無断使用はお断りしています。必要な場合は必ずメールか掲示板にてご連絡ください。
予告なくページの内容が変わることがあります。尚このサイトには、独断と偏見によって書かれている部分も多々ありますがご了承のうえご覧ください。