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2009/03/06 Fri

体罰か虐待か

犬や猫を虐待していたというニュースが後を絶たない悲しい日本という国に住んでいます。
ニュース等で発覚するものは明らかに犬や猫の命を奪うほど悪辣なものもありますが、実際にはごく一般の人たちが本来は虐待に近い行為を平気で行っているという現実のほうが怖いと思います。


犬たちが明らかに嫌がっていることを強要するのも実は虐待と言えるのではないかと思うこともしばしばです。


ですが、虐待という言葉の意味をよく知らずに、単に軽い痛みや恐怖感を与える行為につながったからとすべてを虐待呼ばわりするのはどうかなぁ?と考えています。


犬は生きることを学ぶために母親や仲間の犬たちから多少の痛みを与えられて学ぶことがあります。
これは人間も同じです。
このレベルのことを虐待と言ったり暴力と言ってしまったら生きる知恵もつかずに育つことになってしまうでしょう。


固定されたものにぶつかれば痛いと知っておくことのほうがずっと重要なのに、ぶつからせることなく伝えようとしても理解は得られません。

盲導犬のように命を守るために車が危険であることを認識させるためにはぶつからせることはなくても走っている車が危険であることを恐怖を与えて学ばせます。最終的に自発的に理解し行動する様にまでトレーニングしますが、これを「利口な不服従」という呼び方もします。


通常首輪をつけてひもをつけて歩く行為は犬が苦しくないように歩いていなければ虐待に近いものと考えてもおかしくはありません。
首のような繊細な場所にひもなどを付けずに胴輪のほうがずっと犬に対して安全です。
引っ張れば首が閉まってしまうチョークなどはなおさら虐待の道具呼ばわりされがちですが道具は使い様なはずです。引っ張る状況で無ければなんら抵抗の無い首を絞めるはずの首輪は、その状況なら微塵も負担をかけない道具となります。


本来、物には使い方というものがあって、犬に負担にならないように使えるように設定されているものです。

使い方が違うから虐待まがいになるわけです。
教える方法論も同じくです。
正しく使えれば首輪もチョークも胴輪も同じものとなるでしょう。
その犬にあう方法論が一番であり、合わないものを強要し続けるのはいかがでしょうか?


ぶつかったら怪我をするようなものは痛みが伴うから覚えられます。
じゃれ合いだってやりすぎたら喧嘩に発展することも経験がなければ理解できずにいます。
どの程度強くかんだら相手が嫌がるのか、どの程度かまれたら自分は嫌なのか、犬たちも何事も経験から学ぶことが多いのです。


しつけの方法論には痛みが伴ったり多少の恐怖心を利用したりすることを異常に警戒しいけないことだと伝えているものもありますが、本当の意味で虐待につながらないものについての理解を正しく持たないと反対に犬たちに正しいことを教えられないと感じています。


叱るという行為も、禁止するという行為も、生きるために必要なことの学習方法として生き物すべてが持っています。それは親が子供を育てていく際に脈々と受け継がれている事実から推測できるでしょう。

それをいかに有効利用するかが大切なのであって、言葉に惑わされずにいたいものだと考えています。


虐待行為を受けた犬とそうじゃない犬とでは明らかに表現が違います。

人を信じ明るく表現するような犬を連れて歩くことで、いけないことはいけないと叱っても、やってほしくないことは禁止しても、それを学ばせるために使う手段が犬にとって逃げ出すような恐ろしい行為だったり忘れられないトラウマになるような行為でない限り、虐待といわれる必要はないと思います。


虐待とは意味もなく犬を殴ったり蹴ったりすることで、怪我につながるような暴力を与えることです。
そして水を与えないとか餌を与えないとか生死にかかわる制限を与えることです。
狭いケージに長時間閉じ込めておくとか、犬を無視し続けて精神的に追い込むなど、吠える犬の口をひもで縛ったり、飼い主としての責任を放棄したり、病気の犬を見放したり、理解させて学ばせる努力をせずに黙らせようと叩き続けるような行為のことを言うはずです。


言葉の意味は正しくとらえて使いたいと考えています。