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2009/04/18 Sat

難病と闘う子犬のために

友人の愛犬が難病と思われる病気にかかっていることを闘病日記の中で紹介した。最近ニュースで取りざたされている人間にもある難しい病気に近いものらしい。ポリニューロパチーと同様な病気だろうとのことだ。犬には症例数が少な過ぎてほとんどが安楽死の選択なので情報が乏しいのが現実だ。

未だ確定診断はついたようなつかないようなといった現状で、やれることはないと言われてしまっている。できることは病気が進行してきたら安楽死の選択。それって今目の前に生きようとしている愛犬がいるのに、ひどすぎる宣告だ。でも獣医さんが悪いのではなくまだ多くの病気について解明されたものが乏しく医療の限界を感じる部分でもある。

特に人ならばともかくも犬ともなれば多くの情報がまだ解明されていない。人の病気と犬の病気は全く同じでない場合もあるし、遺伝情報の中の一部が変異して起きた場合にはそれが同一と特定できなければ断定されない。

その中で飼い主であるならば何かしてやれることはないのか、病気が進行してくればなおのこと何か飲ませる薬はないのか進行を止めるだけでもいいのだと必死になってくる。
私にも何頭も病気の仔と暮らしてきたからその気持ちが痛いほどわかるし、私のできることをしてあげようと思っている。

でも私にもできることとできないことがある。治療費に膨大な金額がかかってもそれを肩代わりしてあげられることはない。薬を見つけることができても処方することはできない。購入して渡してあげることもできない。犬の病気を治してあげられるわけではないのだ。

ただ・・・さじを投げられてしまった時、何とかしたいと思う気持ちは飼い主と差があるものではない。

獣医さんの指示でやっていることではない時にその結果は自分にあるとわかっているから、どんな結果になろうとも誰も恨まないし、誰のせいにもしない。神様は恨んだりののしったりするけれど…。

獣医さんだって人間だ。間違いもあるしポカだってある。知らないことだってあるはずだ。専門分野だって違うわけだし・・・。神様じゃないんだから・・・。24時間、毎日毎日一挙一動愛犬の状態を観察できるわけじゃない一人の獣医さんにすべての責任を押し付ける何っておかしすぎる。

1頭の犬のために24時間を割けるのは飼い主しかいない。でも飼い主にだって器量っていうものがある。得意不得意の分野があって、インターネットのサーチもヒットできる、できないがある。信憑性や情報の新しさや誰が書いているものなのかとか、役に立つ、立たないの選択も難しい。

何頭もの犬たちのおかげでサーチは得意になった私。私が彼女にしてあげられることは、彼女の愛犬の症状に酷似した症例を見つけることで診断の役に立たせられる情報を提示することや、獣医さんたちが見つけられなかった情報から投薬の可能性を見いだせるかどうかの打診をできるチャンスを作ることくらいしかない。

彼女は頼ってきてくれる限り、私は暇さえあればあの子のためになにか役立つ情報がないかと奔走する。それが多くの人に無駄な作業に見えることであってもできることはこれしかないと思うから。

夕べもかなり有力な情報を見つけだすことができ、獣医さんの同意があれば投薬する可能性が出てきた。もちろんあくまでも可能性で、実行できるとしたら多くの人の協力が必要となるだろう。人医の協力も必要になるかもしれない。でも犬を飼う人自身がその情報を求める限り、探し出す助けを怠りたくはない。。。何も打つ手がないことと、1種類でも薬を飲ませて改善できるかもという儚い願いが叶うことは余命を宣言されたものだけにしかわからない震えるような感動でもある。

神様から背負わされた不幸な現実を、愛という名のもとに奇跡が起きたらと願うしかない。それは飼い主も、その子にかかわる多くの人が願う同じ思いだと思う。まだ幼く若い子犬のあの子が、多少体は不自由になれど、天命をまっとうし与えられた時間を密度濃く送ってほしいと祈りつつ…私も頑張ってみる。