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2009/03/06 Fri

我が家のルール

それぞれの家庭にそれぞれのルールがあります。
我が家にも、のんびりゆったり暮らしていても実際には犬たちに守らせる絶対的なルールが存在します。
あれもやらせない、これも禁止と書き出していたら何ページにもなってしまいそうなくらい実際のルールは多いです。

その代わり、ルールに縛られて窮屈であるという感覚を犬たちが持たないで過ごすような配慮はして生活しています。


我が家は住宅街の中にある一般家庭なので、数多くの犬がやたらに吠えたてられると非常に困る環境にあります。
かといって声帯を切って飼おうと思ったことは一度もありません。
そんな事をするくらいなら手間を惜しまず犬に理解させる方法を選びます。

犬には生まれもって神様から与えられた言葉を使う権利がありそのために声帯が存在するのです。
声帯を使わない生き物なら退化しています。

使っているものを私の都合でなくすことができません。


なので無駄吠えはことごとく止めます。
全く吠えてはいけないということではなく、私たちが迷惑だと感じる吠え方や回数、時間帯、など条件によって止め方も厳格さも違いがありますが、基本的には「やめなさい」と言われてその行動を停止させるを原則にしています。

言葉かけで停止しない場合には年齢と理解度によって強硬手段も使います。
解釈はいろいろあるでしょうが私たちにとっては犬への愛の鞭です(笑)


ごみ箱をあさったり、テーブルの上にのったり(うちは座卓なので低いテーブルです)そこら辺に置いてある食べ物を勝手に食べたりすることはものすごく叱られて育ちます。
最初からやらない子もまれにいますがたいていは黙ってみていれば仔犬のうちはやりたい放題やってくれますから、やめさせたかったらやらせてみないとやめさせられないを原則に、犬の行動を観察しながら教育するわけです。

犬は自分のする行動が正しいことか正しくないことかの理解は最初からあるわけではありません。
行動を起こし、それが自分にとって嫌なことが起きたり驚くようなことにつながったり、相手に威嚇されたり攻撃されない限り、問題のないことであるという解釈しか付きません。

つまりやったあとの飼い主の行動が大切で、禁止されたのか嫌がっているのか、望まれたのか、犬が理解しなければならない行動を飼い主側が求めなければ教育できないのです。
また犬は非常に単純な解釈しかできないので、一度や二度で一生忘れないように覚えるものもありますが、それはトラウマに近いものであり、通常の生活上の多くのことは繰り返される条件の中で自分の都合のよい方に選択肢を変えていく生き物です。


つまり人間の方がある一つの事柄について都合のよいものに解釈するように教育できたと認識していても、タガが緩めば犬は緩い方を選ぶということです。人が緩い方でもよいと伝えたに過ぎず、犬のせいではありません。


このことを踏まえ、我が家ではひと・犬に限らず、攻撃を加えることは何があっても許せないことの一つと教えてあります。
もちろん犬同士の場合、つついたり、怪我をさせるほどではない表現の場合には必要なことという認識の場合にはたしなめないこともありますが、加減を知らないような行動の場合と、相手が人だった場合はこの限りではありません。

大人ばかりの家庭の中で育つ犬たちであっても、近づいて来る人間が赤ん坊や、子供やお年寄りなど、苦手、または犬にとって見知らぬ不思議な生き物として見える相手であっても、ほえついたり噛もうとしたりする行為は我が家の犬たちにはあってはならないことという教育をしています。

これは自転車やオートバイなどの人が乗っていることが見えているものも含みます。


犬はテリトリー意識の高い生き物ですが、住宅街で生活しているときに家の周りでする音を怖がりすぎたり、通る人に対して吠えかかったり、意味無く吠え続けていたりすることはとても困る現象だと思います。
うちの犬たちはこうした行為を全くしないわけではありませんがするたびに叱られて制限されています。

若い個体ほど叱られたからとすぐにその行動を止められるわけではありませんが、吠える必要がないと知った犬たちが増える中で自分の行いが叱責の原因であることは徐々に理解しますし、ほかにも条件を変えて1頭で問題を指摘され制限されることの繰り返しからほかの犬と同様の行動に準じてくるようになります。


選挙カーが通り、さおだけ屋さんが通り、豆腐屋さんが笛を鳴らし、学生が奇声をあげて通り過ぎて行く環境です。
大きなトラックが通れば駐車場のシャッターがガタガタ震え変な音も出ます。毎日郵便配達の人が来て、宅急便のお兄さんがきて、通学の小学生の子供たちが、近所のお年寄りが、赤ちゃん連れのお母さんが、犬がいっぱいいるねと門越しに覗きこんでいく家で、庭先や駐車場でうろちょろしている犬たちが全く吠えないで静かにしていられるようにすべてを教育し切れているわけではありません。

でも、「誰かがのぞいているよ!」「誰がきた〜!」と吠えたら最初にかける言葉は「やめなさい!」です。

状況が分かっていても決して「わかったよ」「ありがとう」とはいいません。

吠えずに伝えに来たら「いいこだね、ありがとう」と頭の一つもなぜますが吠えたらまず制限するが一番なのです。

そうしないと次からどんどん吠えるようになって行くからです。


室内でも同じことが言えます。
年をとって耳が聞こえなくなったり、人の話がよく理解できなくなった年齢の子は別として、10歳前の犬たちなら室内でも同様だということです。

窓から見えるものに対して吠えたてたり、興奮して部屋中走り回ったり、やめなさいと言われてやめてくれなかったら我が家の頭数では大変なことになるのですから。。。


ちなみに我が家の犬たちでは飼い主の言うことをちょっとへらへらしながらこのくらいはいいよねという表現をダックスの方が多くします。

でもそんな子たちでさえ、こちらが本気で行動制限をしに来た時はピクリとも動かずに数分耐えることができるのです。言葉だけで…。

あのガサツなダックスでもです(笑)

通常お客様の前では本気で叱らないのだということを犬たちはよく知っています。
目に余らない限り本気で叱ることはなく来ているので多少ずうずうしい表現が多いかもしれません。
幼い子供と同じです。


我が家の基本のルールは「やってほしくないことは必ずやめさせる」だけです。
一つ一つは常識の範囲で、自分たちが困るというよりも、他人から見てあんな犬は嫌だなと思われないような犬にするために多くを教えています。
教え方は、母犬や群れを形成する犬たちが仔犬に対して群れのルールや犬としての常識を教えるやり方をまねて人ならその方法をどう使うかをMAGICSTYLEと呼び作り上げています。

一般的に使われている強制訓練、陽性強化法は時と場合によって利用することはありますが、多くは独自の教え方です。

餌や物による代償行為も使いませんし、犬が恐怖によって行動の制限をするような強い禁止も使いません。

犬からの理解の度合いを把握し、その犬に合わせた方法論の選択から伝えていく作業を推奨しています。


なぜなら犬と付き合うということは彼らの意思を認めなければこちらの意思も認めてくれないと長い経験の中から知ったからです。

2009/03/06 Fri

私の理想の犬

誰にでもこんな犬と暮らしたいという理想の犬がいると思います。
私の理想の犬は大まかに言ったら飼い主だけを見てくれるオンリードッグでしょう。


オンリードッグというものは飼い主のそばを離れないシャイな犬のことではないのですが、そういう表現の犬を指していることもあるようです。

ちなみに私は違う犬を指しています。


1:飼い主を一番大好きな犬。
2:簡単な人の言葉が理解できる犬。
3:苦手なものが少ない犬。


飼い主を何よりも好きな犬がまず第一です。
家の中でも外で思い切り遊んでいても飼い主から声がかかったら大喜びで飛んでくるような犬です。
また、たとえ嫌なことをされるとわかっていても飼い主であれば言われたことに従える犬のことを言っています。

爪切りとかシャンプーとか足をふくとか獣医さんに行って診察台の上に乗るとか、知らない場所に連れて行かれるとか、やりたくないことをされることが分かっていても従える犬が良い子だって思います。


いくら好きでいてくれても全く言葉が理解できない犬は困ります。
犬との共通語はボディーランゲージしかないと言われてきました。
でもある程度の知能をもつ犬たち同士は声帯を持っているので、ちゃんと独自の音のコミニュケーションをとっています。

つまり簡単な明確な言葉程度なら犬にも人の言葉の意味を伝えることができ、理解させらます。
ただし幼い時期から豆に言葉をかけて犬が理解できるような環境を整えなければ難しいことですが。
簡単な言葉が理解できるように育てられると犬との暮らしは格別なものになります。
相手はただの話の通じない犬ではなくなるからです。



苦手なものが少ない犬は飼い主の育て方以外に生まれもったものも関係します。
犬はみな同じ犬ではないので苦手なものはそれぞれ違い、怖がる程度もまたそれぞれ度合いが違います。
嫌がるもの怖がる物の数の多さも、最初から0の犬はいません。
苦手なものが10ある犬と20ある犬とでは数多く苦手なものを持つ犬の方が悪いとは限らないということです。


苦手なものを減らしていくため・怖がる程度を少なくするにはその理由を知らなければなりません。
こまやかな観察力を持ち、タイミングを逃さない行動力が伴う人なら、多くの犬の苦手なものを減らすことができます。

苦手なものがたくさんある犬を「こういう犬だから」と言ってしまうのはあまりに犬が気の毒でしょう。
生まれもったものからそのままであれば人にとって都合の悪いものが表現されることが多々あります。
ですが我が家の犬たちは血統の流れも違い、表現がかなり違う犬たちが生まれてきますが、うちに残っている犬たちの表現はあまり違う子はいません。

生まれもったまま育てるのではなくその家に沿うように修正するから同じような表現の犬になるのだろうと思います。


経験からいえば犬の性質や表現力の多くは育てられた環境によって変化するものなのだということです。
これを環境遺伝といいます。
つまり犬は飼い主から伝えられた通りの表現を見せる生き物だということです。

たとえば問題行動が多く手放された犬がその犬を理解できる飼い主に巡り合えると名犬に変わることがあります。
プロのトレーナー等がレスキューした犬の中には、隠されている本質を見出し、それを伸ばすことによって職業DOGに生まれ変わることすらあります。

一般の家庭でも細やかな愛情豊かな飼い主のもとにレスキューされると穏やかないうことの良く聞ける犬になり、手放された理由すら理解できないようなこともあるほどです。
このことは逆にも言えることで、どんなに素晴らしい素因を持った犬でも、環境次第で育てにくいと思われる犬や、問題行動を起こす犬になることもあるわけです。


私の理想の犬は上記を踏まえ、飼い主以外の人間に媚びず、誘惑に負けずに飼い主からの指示に従える気持の大らかな犬です。
ドッグスポーツの競技を楽しんでも結果が一番ではなく、スイッチのオンとオフを飼い主にゆだねられるくらい信頼関係の深い犬を理想としています。
競技自体や使うアイテムに反応するのではなく、飼い主と一緒に楽しむことを喜びとしてくれる犬が理想の犬です。


DISCやボール等の犬の大好きなものを持っていると何でも言うことを聞くとか、食べ物をもらえると常に期待しているとか、競技をすることだけが喜びとなってしまう犬はどんなに良い結果をもたらしても私にとっては理想の犬ではありません。

我が家はドッグスポーツを楽しみますが、結果を求めて犬を使ったことはありません。
教えてきたことが結果につながった時は大いに喜びますが、教えている・教えられている時間が楽しいのであってそれは人も犬もその時が娯楽であればよいという考えでいます。


私の理想の犬は散歩等でひとや犬に出会った時に逃げ出したり威嚇したりせずに穏やかに挨拶ができる程度でよく、自ら飼い主以外の人になぜてなぜ手と媚を売るような犬ではありません。

また意味もなく吠えかかったり飛びついたり追いかけたり、犬の意思で動かなくなってしまうような子ではありません。
ドッグスポーツをするときにも静かに始めるよという合図が出るまでおとなしく待っていられる犬であり、どんなに好きなことでも興奮してやみくもに切れて走るような犬ではないのです。
また飼い主と一緒である認識が高く、ほかの犬たちがたとえ大好きなことを目の前でやっていても興味を持ちつつ無視できるくらいの犬が良い犬だと思います。


つまりDISCやアジリティーなどをほかの犬がやっていてもコースのすぐ横でリードなしで黙って座って順番が待てるような犬です。
そんなことができるはずがないと言われる方も多いでしょうが少し筒教えていけば犬はこの程度のことは理解できるものなのです。
一般家庭で愛情を十分に受けて言葉をたくさんかけられ意味を理解できるように育っている犬は手間もかからずいきなりでもできてしまう子もいるくらいなのですから、訓練によって教えるものとは違うのでしょう。

ですから我が家に限っては、自分と暮らしている犬について、競技の結果よりもこちらができないことに失望を感じ、わが家族は「未完成」と評価します。


通常いわれるオビディエンスは形を教えるものであって行動を教えるものとは違うのかもしれません。
犬と楽しく幸せに暮らすために必要なことはオビディエンスではなくしつけといわれる家庭内のルールの徹底に尽きると思います。

そのルールは犬が嫌いな人にも犬は嫌いだけれどこういう犬なら認めてもいいかなと思わせるようなものでなくてはならないと思うのです。

最終的に犬を怖いと感じている人や嫌な経験がある人が我が家の犬との接触を持ち犬への理解に良い変化が起きるような犬を理想としています。

2009/03/06 Fri

初心に帰る

子犬を育てるときから老犬になってしまっても、飼い主が忘れてはいけないことがひとつだけあります。
仔犬でも成犬になっていても彼らが良いことをしたとき(特に飼い主から出された指示をこなせたとき)心から喜んであげるということです。
私が犬たちと暮らす中で一番大切にしていることです。
特にシェルティーは本気で喜ぶとすぐにその気持ちが伝わります。


仔犬のしつけにはじまり、成犬の訓練でも良く聞く愚痴が、飼い主(自分)はこんなに褒めているのに犬が喜ばない、喜んでいないということがあります。実際、話だけだとほめているのに何で喜ばないのかしらと不思議に思うことですが、実際に見させていただくと、確かに傍目から見たら飼い主さんは形は精一杯褒めてあげているけれど、心からかなぁって疑問に感じることが多いものです。
そこで、よ〜く話していくとやっぱり本心からよろこんではいないことが多いのです。
本心からじゃなくちゃその気持ちは犬には伝わっちゃうわねということでしょう。(苦笑)
人はとかく一度出来たことは『出来る』と決め付けてしまいその上を求めてしまうからなのかもしれないし自分が思ったとおりの動きにならないことを認めようとしないのかもしれないからかもしれませんが。

相手は幼稚園児だと思っていればそこまで厳しくならずにすむものですが、なかなか実際は難しいようです。


犬は人と違って特殊な能力があります。

それは現在では人の体に出来た癌を発見したり、てんかんの発作や心臓発作を事前に教えたりするような人の体から発せられる特殊な匂いや電流のようなものを察知したりする能力を持つ犬がいることでもわかりますし、ごくごく身近なものでは飼い主の帰りがわかるとかのように、飼い主の足音から発せられる電気信号をかなりの距離からキャッチできたり、飼い主に対して発せられる危険を察知できたり、地震がわかったり、テレパシー以外には考えられないといったものまでまぁ色々とあるものです。


もともと、人間は犬の持つ能力で勝てるものと言ったら知能の部分だけで、鼻も利かないし、目だって動体視力はかないません。
耳で拾う音も問題にならないほどの違いがあり、走ったとしても、まず子犬にだって負けるでしょう。
犬は同じことを同じ時間に数回繰り返すだけで時計を見なくても時間がわかります。
アジリティーのようなコース、DISCのルーティンも正しいものを1度か2度こなすだけですべて覚えてしまう記憶力の高い生き物です。
飛ぶ能力だって自分の肩の高さくらいなら練習などしなくてもどの犬だってほとんど飛ぶことができるのです。
たとえ数日でもとても愛されて犬の記憶に刻みつけられれば数年会うことがなくてもちゃんと覚えています。


こんな特殊な動物を相手に、人を騙すかのように簡単に騙せるはずがないとは思えないでしょうか?

人は言葉巧みに笑顔で接しているとかなり簡単に騙されてしまいますが、あいにく犬はこういうことにかけてはそうは行かないわけなのです。
犬にはポーカーフェイスは通用しません。

犬は人が発する本当の心の動きを実に良く察する動物だと思います。
それは緊張感や昂揚感から発せられる匂い等が嗅げるのか、フェロモンのようなものが出るのがわかるのか、心拍数の変化に気がつくのか、血圧の変化に気がつくのか、微妙な癖のようなものの動きで見つけてしまうのか、いまだ科学的に証明されていないのです。

とりあえず表情ではだませないことはうちでは証明済みです。(笑)


犬は自分に対して人が媚びているのかも知っているし、表面だけでよろこんで見せているのかも知っているし、悲しみの深さや、心の深い傷にも敏感です。考えてみれば実に恐ろしい動物ですね(苦笑)
こういう動物とうまく付き合う方法がひとつだけあるとわたしは考えています。

それはなにはともあれ本心で付き合っていくことでしょう。


相手が犬ではなく同じ人間だと思えばおべんちゃらが聞かない相手に何もおべんちゃらは言いません。
そんな事をしても無駄ですから(^−^)
媚びへつらった所で、『それが何ナノ?』と言う相手に媚びたって仕方がないはずです。
そんなことをしていたら『私は自分で好きにやるわ!』と言い放つのが犬なのです。(笑)

人と同じなんです。感情を騙せない能力をもつ長けた犬相手に、何もそれ以上もがいて騙そうとすること自体が無駄な努力じゃないかと思います。


もし犬相手ではなく人だったとしたら何かをして欲しいと頼まれ、それをこなしてあげたときに相手が形だけよろこんでいるのがわかってしまったらどんな気持ちになるでしょう。
本当はちっともよろこんじゃいなかった。実際は心の中ではまったくこんなことも出来ないのかしらとか思っていたらね・・・

騙すという表現はおかしいかもしれないけれど、本心が犬に伝わってしまうのですよと言いたいのです。
要するに形ばかり褒めたところで飼い主が本当に嬉しくてこの子ってすごいわって思わない限り、犬にはうれしい気持ち・心が通じないよといいたいのです(笑)


犬に何かを教えるときに人は必ず最高に嬉しいと思う瞬間を必ず感じます。
それは初めて教えたことが出来たときのその喜びと感動です。
これを毎回犬のために本心から同じように喜べる人が犬との関係に早く成功していくのではないかと思います。
その犬を本当に大すきじゃなくちゃそれは表現できないと思うし、だからこそ飼い主だから作れる関係というのが存在するのだと思います。


犬は何のために人からの指示を聞くのでしょう?

わたしは飼い主さんによくこの問いを出します。
褒められたいからじゃないでしょうか?って答える人が大半です・・・(~_~;)わたしは質問し、いつもこの答えを聞いたあと必ずコウ答えることにしています。


『あなたを大好きな犬なら、あなたのよろこぶ顔をみたくて、あなたを喜ばせたくて、あなたの指示をこなしてくれるんですよ。人のように自分が褒められたいからじゃないんです。。。犬は人よりもずっと献身的な動物なんです。だから、飼い主は犬に答えてあげて欲しいと思います。その心を汲み取って・・・』


犬と素晴らしい関係を作った人ならきっとこの言葉の意味を理解してくれるだろうと思います。
飼い主自身が自己中心的な考えや行動では犬の心は開きません。

代償行為での行動ではなくできるということは、恐れや恐怖からではなく行動してくれるということは、信頼しているということに等しいと思います。


人が本心から喜ぶと言うことは感じたことがあるはずのあの感激を、うれしさを思い出しそのたびに同じように想うことです。

これが結構難しいので、多分毎度『初心に帰れ』ということになるのかもしれないですが・・・


まぁ愛犬親ばかナンバーワンを自負する人なら、きっといつもどんなことでも大喜びしているだろうとは思うけれど
何かに躓いたら思い出すと役に立つかもしれない、コラムでした。(*^。^*)

2009/03/06 Fri

躾はさまざま

犬のしつけにはさまざまな方法論があります。
昔は強制訓練と言うのか力で犬を押さえる訓練方法が主流でした。
最近は打って変わって褒めて育てる訓練方法が大流行です。

でも、根本は何も変ってはいないのではないでしょうか?。

犬のしつけの根本になるものは人間の支配欲から来る自分に従わせるという観念であると思います。
こればかりは表面でいくら褒めて可愛がって育てましょうと唱えたところで、なかなか打ち破ることの出来ない大きな壁なのだと思います。
元々人間は最高の哺乳類であることに気が付き、多くの動物に対して君臨してきています。
それは今も昔も変りません。家畜という制度自体を考え出したあたりから続いている恐ろしく長い人間の歴史なのですから。


このことを前提において、犬と自分が良い関係を築く努力をしなければ、記録に残っているような真実の物語に登場する、または映画の中にあわられる様な理想的な名犬に育ってもらえないものかというのは大げさだとしても、誰からも認めてもらえるような良い犬になって欲しいというのはいささか無理な話だと思うのです。


名犬といわれた犬たちの過去を遡り、その飼い主との関係を調べれば調べるほど、彼らは犬として扱かわれてはおらず人間に対するのと遜色なく接してもらい語り掛けられ、いつくしまれている犬たちがほとんどでした。
もちろんなかには無償の愛によって大きな犠牲を払った後に飼い主がその尊さに気が付くといった事例も多くありますが・・・

MAGICと名乗る私はたぶん犬を犬と思ったことがほとんどないのだと思います。
幼い時から接触してきた数多くの犬たちから自然と学んできたバックグランドがあり、それが彼らを友人として受けいれてしまう根源のように思います。親としてかかわるようになってからは、まだ言葉のしゃべれない幼い子だという認識で毎日を暮らしてしまうのですから。


それは犬たちが人間で言うそれなりの歳になっていたとしても彼らが永遠の眠りにつくその日まで変ることはない不変の自分が造ったルールなのでしょう。だからすべての犬を飼う人がこうした気持ちを持たなくてはならないとは言いません。
私はこうした気持ちを持って犬たちと暮らしているということにすぎないだけです。


私がこの総合サイトMAGICWORLDの中に紹介している事柄の多くは、犬を知っている人にはなおさら理解しがたいであろうルールのうえでこそ成り立つものです。
言葉がわかる。話ができる。
そんな犬と暮らしたいからこそ彼らの代弁者となりたくて書き連ねています。
それを踏まえたうえで、もし興味があるなら最後まで「ニヤリ」と笑いながら読んでいただければと思います。
そして大変申し訳ありませんが、私は私の理論で犬たちと暮らし充分に満足しているので、反論はご遠慮ください。<(_ _)>


たとえば「良い子にしよう」ってどういうことを言いたいのでしょうか?
私は一緒に暮らす家族だから、自分の子供と同じように、パパやママが大好きで、何があっても必ず助けてくれると信じていて、尊敬してくれる子にしたいと思います。
犬だからこそ、言葉が伝わる関係になりたいです。


明らかに間違っている行為は悪いことと言う認識があり、それをしないでいられるのが良い子だと思います。
でもそれが無理ならせめて親がいけないことだから止めなさいと止めればやめることが出来るなら犬の場合にはそれで十分じゃないかと思います。

人間の中学生レベルのように大人がいなくても自分の判断でいけないことはしないでいられる程度などと高望みはしていません。
犬には完全なる禁止として教え込むことはできますが、私の知っているものは恐怖心からその行動を起こさないように刷り込ませるものしかありません。

そんな方法を使うくらいなら自分の時間と知恵を犬たちのために使ったほうがましです。
2・3歳児の幼児が見ていない時もいけないことをしないでいるとしたら単に興味がないからです。
興味がないことがよいことではなく興味を持ってもやらずにいられることは理想ですが、人間でさえ幼児には無理なのですから犬だったらなおさら無理だと判断しています。


理不尽な命令にまで従う必要はないけれど、親(この場合飼い主)の言うことは聞ける子であって欲しいということに尽きるのです。


自分の子供に置き換えて言うなら、何も有名大学に入って一流会社に就職してくれることが良い子だとは思っていないのとおなじです。

これは犬なら、何かの大会に出て素晴らしい成績を収める犬だけが良い犬だとは思っていないということと同じなのです。


だから、脚側行進は飼い主のそばをはなれずにいられればヨシと思います。「握りこぶし一つ分あいた間隔で横に付く」なんって言いません(^−^)
もちろん競技会とかに出るなら練習して理想の形に近づけて挑むのは当然ですが、普通に暮らすのに、ぴったり横にいなければならないなんてナンセンスだと思っているから。。。

お散歩で多少こっちに行こうよとひっぱることは悪いことだという認識はないですし、ねぇひっぱらないでといったらあぁごめんねと傍に戻る子なら良い子だと思うわけなのです。
たまに飼い主の傍を脚側行進そのものに、わき目も振らずに歩いているペアを見かけますが、「何が楽しいのかなぁ?」といぶかしがって眺めているのが現状です。(苦笑)

反対にまるで幼子を連れて散歩するようににこやかに犬に話しかけながら楽しそうに歩くペアを見かけると心が温かくなり幸せにしてもらっているのだなぁとうれしくなるのです。


目的があったらそのために努力するのは当然ですが、毎日の生活の中で犬の行動を形で判断するのは、子供に対して勉強が出来ることで頭が良いということだと勘違いすることに等しいと思っています。
人間に対してあの人は頭の良い人だねと言うとき、その人の学力を指して言っているでしょうか?

私が思う頭の良い人とは、相手が言っていることをすばやく正しく理解・判断でき、言われたことを正しく行動できることだと思うのです。
学歴とか学力とかでは判断できない部分です。
頭が良いという表現はそぐわないのかもしれませんが、生きていくことにうまく対応できるってことを身につけているってことで、悪知恵で世渡りが上手というのともまた違いますが(笑)。


犬を良い子にするというのはまさしくこの事以外の何物でもありません。
生きていくための群れ(家庭)のなかで正しくリーダーに従い、群れ(家庭)のルールを守っていけるように育てる。

これがいわゆるしつけです。

つまり訓練といわれるものとは大きく違いがあるということになります。


人間の子供は親が教育出来なければ昔は近所の人が教えてくれました。
学校なんかサボって公園で遊んでいようものなら、知らないおじさんに怒鳴られたものです。
けんかなんかしていても近所の大人が誰かしら止めに入ってけんか両成敗とか言われてゲンコツをもらったものなのに・・・

最近じゃ、その素晴らしい行為さえも「余計なお世話」といわれるようになり、問題を起こしたはずの子供の親が大騒ぎし、いつの間にか注意したほうが悪くなるなんってこともあるようです。

学校関係でも非常識な親が問題視されていますが、社会的傾向とはいえこうしたままでいいのかは甚だ疑問を残します。
たばこを吸っている者への注意や学生同士の集団によるいじめなどになると、警察まで「その場は逃げて通報してください」なんていってる始末です・・・

大人は見知らぬものは子供でも警戒し、社会的に非常識なことすら見て見ぬふりをして自分には関係のないことだったら見物人になり下がっています。
相手が小学生や中学生でこれだもの話にならないよなって思います。


こんな世の中ですから、せめて自分の犬くらい自分で正しく教育したいと願うわけです。
犬の場合には教えるのは飼い主しかいないから余計に差がつくのでしょう。
飼い主の認識次第で犬はどうにでも育つからです。
ある意味では人の子供よりも純粋に育てられるけれど、決まり事が間違ったところからのスタートだったら宗教のようにこれが正しいと思い込むことでしょう。

ごくごく普通に犬と暮らすことは、実は人と暮らすことに等しくてこれが犬と暮らすことの基本だと思っています。


子犬を見に来る人たちの反応はさまざまです。
可愛いのは判ります。
私だって毎日見ていたって飽きないし目の中に入れたって痛くないよと思うくらい可愛いのは確かですから。
人間の赤ちゃんも同じだと思います。
でも不思議なことに人は、人間の赤ちゃんは脅かしたり、怪我をさせたりしないように気を使うのに、仔犬にはそういう気遣いが少ない人が多いです。


「きゃぁ〜可愛い〜!」と大きな声をあげて子犬に駆け寄って行ったらびっくりするとは思わないのでしょうか?
静かにおしっこをしているのに、ことさら大きな声を張り上げて「良い子でちゅねぇ〜!」って褒めるつもりでも、相手がびっくりしちゃうとは思えないのでしょうか?
捕まえて頬ずりしたら子犬はおしっこをしたのが良いことだったなんて思うと考えているのかすごく不思議です。
人の赤ちゃんだったら理解できないでしょうから。


子犬の心臓がバクバクしちゃうようなことを人は簡単にやってしまいます。
自分を相手が認識していなくたってそんなのかまったこっちゃないっていう行動は、呆れさせられます。
初めて会う人間の赤ちゃんを見せてもらいに伺うときに大きな声を張り上げたり、嫌がる赤ちゃんを無理に抱いたりしたりはしないはずです。


人見知りしないように泣かせたりしないようにそっと穏やかに赤ちゃんには接するはずです。
大丈夫かなぁ?泣かないかな?
おばちゃんは怖くないよ、いいこだね、かわいいねってなだめながら接するはずです。
それでも相手が怖そうな顔をしたら無理に抱いたりしないでしょう。
毎日たくさんの時間を一緒に過ごせないパパの顔さえ赤ちゃんは覚えられません。
自分の子に泣かれて悲しくなるというパパさんの声が聞こえてきそうです(笑)
ましてや小さな赤ちゃんと一緒に育った経験もない小学生などに赤ちゃんは抱かせたりしません。


でも仔犬はどうでしょうか?


子供は仔犬を抱きたがります。
子犬はぬいぐるみみたいにかわいくてふわふわですから当たり前です。
でも実はおもちゃではないんです。
ぬいぐるみのように手が離れて落としてしまっても壊れないようなものではないのです。
子供は立ったまま抱いて歩くってよくあることです・・・
暴れて落とすかもしれないのに何故抱かせられるのでしょう?
大人だって抱きなれていない人だったら、暴れられたら手を放して落としてしまうこともあるくらい危ないというのに・・・


こういうのって私にはあまり理解できないことです。
だから抱かせるときは自分がそばにいてみていられる時しか抱かせないし、ましてや立って抱くなんて言語道断ですから子供自身に「座りなさい」と行動を指示します。
それがたとえ子犬のオーナーになるお宅の子どもさんでも同じで、申し訳ないが必ず座っていなくてはいけないと言わせてもらっています。
犬は子供のおもちゃじゃないし、きちんと育ててあれば子供にだって扱うことができるようになり良い友人になる生き物です。
何故それをしてからに出来ないのか?子供が言うままに子犬を与え問題行動につなげてしまうことはとても多いのにと思います。


情操教育のために子犬を飼うなら、それは子犬の世話をさせることで情操教育になるのではなく、幼い自分たちよりも弱いものを親がどう取り扱うかを子供は見て育ち教育になるのだと思っています。
だから親の行動が一番問題なのであって、犬を飼うことで子供のためになるのではないと考えています。


子供が犬の世話をすると約束したからといわれてしまうとついつい苦笑いになってしまいます。
結局最後は子供がもらってきた犬なのに私が世話をしてるのよと嘆く友人に、「最初から当たり前の事なのに何を言ってるんだか」と思い、「下の子の面倒を上の子が見ないと嘆いているのと同じだわ」と答えると大半の人ははっとした表情になり「そうよね、モノじゃないんだから子供が完ぺきにやってあげられるはずないわね」と答えてくれます。


犬を迎え入れることは一つの家族に小さな赤ん坊が生まれてきたのと同じだと考えてほしいのです。
そう思えれば世話はだれがするのが一番的確か、親は子供よりも立場が上でなければしつけもできないことは周知の事実ですから幼い者が幼いものを育てるのは通常は難しいと考えるのが筋なはずです。
家族だって、幼い子供をその子よりも少し大きい子だからと言って世話をさせたりはしないでしょう?
大人に近くまで成長し信頼に値する行動が伴っていればこそ任せることはあるかもしれませんが(笑)


親がやることを手伝わせてこうするのだよと教えていくことはあっても、責任を持つことへの教育だとしても観点が違うと思います。
仔犬はどんなに時が立って大人(成犬)になっても、人間で言う幼稚園児と変りません。
もっと幼い知能程度のままの子だっています。
多くの人は犬を誤解し、大人になった犬に多くのことを求めすぎていると思います。
彼らは死ぬまで幼稚園児の延長であるという認識さえあれば、もっと彼らの声を聞こうと思うだろうしもっと優しく接してあげられるのではないかと思います。


幼稚園児に冗談は通じないし、からかってしまうと本気になるのはごくごく当たり前のことだから、大人はそれを踏まえて幼い子に接しているはずです。犬が幼児と同じなのだという認識さえあれば人はもっと犬に対して優しくなれるのではないでしょうか。


犬をからかって楽しいのは人間だけであり、犬はちっとも楽しくはなく、ただただ理解不能に陥るだけで、わざわざ混乱させることの必要性は犬の場合にはまったくといってないはずです。
幼い子供が悪い事をしたときに大人はその子供の体の自由を奪うホールディングという方法を取るでしょうか?
はがいじめというやつです。
最悪なことにこの方法は犬の飼育書には多く書かれている方法なので、初めて犬を飼う人は「なるほど」と感心しその方法を取り入れて大きな間違いを犯します。
マズルコントロールも同じような部類です。


犬からしたら飼い主の人間の大きさはジャックと豆の木に出てくるような巨人に当たるはずです。
元々、存在だけでも犬からしたら驚異的であるにもかかわらず、大きな声でどなられたり、物のような手で叩かれたりしたら即座に萎縮するほど恐れるというのに、そんなことはお構いなく犬がしてはならないことをしたからと、体を押さえつけ馬乗りになったり、床に顔を押し付けたりしたら、犬たちはどうやって人を信頼できるでしょうか?


愛すべき飼い犬にどんな心理状況を起こすかなど考えもせず・・・
安易に状況判断をせずに方法論のかたちだけを持ち込む危険はとても大きいと思います。
もし、自分が自分の何倍もある大きな生き物に、体の自由を奪われ罵声を浴びせられたり、大きな声で怒鳴られていなかったとしてもどれほどの恐怖を感じるか考えて欲しいと思います。


犬が威嚇行動を起こしたり、噛むという行為をすることの多くの意味は、追い詰められて発生することが多いからです。
窮鼠猫を噛むのたとえに等しいのです。
ですから専門家でない場合には安易に簡単に出来そうに思える即座に効果があるというような方法論を使うことは危険です。

こういうしつけ方で犬の行動を制御して育てると、犬は飼い主の機嫌を伺いいつも圧力がかかりそうになるということを聞くような子になってしまいます。聞いていればまだよいですが、犬が限界を感じ威嚇行動にはいった時に飼い主がその行為(歯をむいたり、吠え掛かったり噛み付くなどの行為)にひるむ事が多いため、手のつけられない犬と変わってしまう事例は多いのです。
最悪のパターンは飼い主側からのアクションがないのに犬が攻撃を楽しむまでに至ってしまうことです。


本来なら穏やかで優しい犬であるはずの子が、育て方、しつけ方の間違いによって穏やかに暮らせるはずの時間を苦しく辛い問題行動のある犬に育てることになっててしまうことはよくあることで、勉強熱心で一生懸命な真面目な飼い主さんに特に多く感じます。

何も知らず自然体で犬と暮らしてしまう人には少ない現象であることがしつけにかかわる大きな問題点であるでしょう。
もし自分の思うように犬の変化が現れないのならその方法は犬が受け入れたものではないのだと早々に判断し即刻中止したほうがよいでしょう。
そして犬へのアプローチを変えるべきです。
それが犬・ひと、互いのためであると思います。


可愛いからといってけじめをつけない育て方は一番始末が悪いです。(苦笑)犬も人間も子供に教えなくてはならないことはたった2つしかありません。「いけない」と、「良い」たったこれだけです。

我家のルールはこの2つしかありません。すべてはこの言葉の意味になるだけで何とかなるのです。


吠えても騒いでいてもいたずらをしても、彼らの行動を止めるには、「いけない」「駄目」「止めなさい」「静かに」「ストップ」「NO」こんな言葉でことは収まるようになっています。

これは幼いときから、手を噛めば「痛い」「いけない」とその行動をその場ですぐに止めさせてきているからで、吠えることも同じくだし、部屋の中を駆け回っていても同じことです。

その場その場で止めさせるときの行動は違うのは当たり前ですが走り回っている仔犬を止めるならてじかに来たときにすかさず抱き上げてしまい、「もうおしまい、止めなさい」といって興奮状態が治まってからおろせばたいていは走り回らないものです。

それを捕まえようと追いかけたり声をかけ続けたりすれば犬は遊んでくれていると勘違いし、ますますパワーアップしてエキサイトしてしまいます。吠えている行動にしても『ワンワン』言っているにもかかわらず、『いけない、止めなさい』を連呼したところで最初から「わかりましたやめます」と即座に簡単に収まるはずはありません。

吠える犬の傍に行き、少し低くどすに聞いた声で『静かに!』とにらみつければたいていの犬は止めます。


それは犬の行動学で知られているものの中にあるものを使ったから効果があるのであって、実際にはリーダーとして認められていなければ言葉だけでの制限が難しいのは当たり前です。

まだ何も理解していない子犬は母親から多少の痛みを伴う叱責を受けて行動を制限することを学んでくるわけですし、その中にはどすの利いた声での脅しに近い、唸り声を使って相手の行動を阻止するというものもあるわけです。

それを学習して育っていない子犬ならこれだって効果があるはずもありません。

家族の一員になる前から学んできたものも多く関係が出てくる部分でもあり、本能に刷り込まれている部分と学習による刷り込みとはまた違うことを知っておくことも必要でしょう。
飼い主の犬に対する普段からの行動と繁殖下で子犬が育つ状況に犬としての学習ができているかどうかが伴っての話がまず第一になります。


犬は自分のしている行動そのものが否定されているのか肯定されているのかを飼い主の行動で判断します。
だから否定するなら否定しているとはっきり判る行動を犬にとってやらなければ問題は収まらないのは当たり前なのです。
日本人はここら辺が不得意といわれており、海外の人に比べると違いが出てくるのかもしれませんが、犬には白黒をはっきりつけて伝えることを知っておけばできないことはありません。


ほんのちょっとの努力で改善できることは沢山あるのですから、子育ての期間にきちんと教えておけば良いのにと思うことが沢山あります。

この否定する行動以上に大事なのは彼らのやっていることが良いことであれば褒めてやるという肯定する作業です。
これは否定した数の十倍は必要だと考えておくとよいと思います。
そしてそれは家族の一員となったその日から1・2カ月のうちに覚えさせられる簡単なことです。


人は犬が何かをしないと褒めませんが、家の中で静かにしていることだって褒めるの充分値することのはずです。
それを褒められるようになった飼い主は少ないです。
褒めるという行動は大げさに大きな声で大きなリアクションで犬の興奮性を高める必要はないことですがそれすら理解できていない人が多いのが現実です。


静かな声で、『イイコだね』『偉いね』と声を掛けてあげることが大事で、近寄ってくるなら頭のひとつでも撫ぜてやれば良いのです。
寝ている犬が飼い主を信頼して安心いたらそっと体をなぜてもうっすら目を開けてまたすぐそのまま眠りに入ります。

言葉をかけないほめ方だってあるのです。


犬を褒めろというと、人がするものにはあまりに大げさなのには驚かされています。
テンションが低い子ならそれも良い結果をもたらすことは少しはありますが、犬は突然立てられる大きな音には恐怖を感じる動物です。
犬の理解を得ないで人だけが騒ぎ立ててそれでほめているつもりだったとしたら犬には理解不能の動きをする相手としてしか認識されません。

幼い仔犬を、またおとなしい成犬を、褒めているつもりで驚かせないで欲しいと思っています。
犬に合わない褒め方をして育てるとどこかびくびくした子に育ってしまいますし飼い主を信頼しない子になってしまいます。。。


毎日楽しくお外に行くお散歩だって何十回となく褒められる言葉をかけるチャンスは作れるのです。

リードが緩めて歩けたら、
顔を見上げたら、
そこで止まってと言って止まれたら、
いい調子で上手に歩けているだけでも…。

そのたびに「いいこだねぇ〜」とかそれぞれの肯定の声をかけるのはそんなに大変なことじゃないはずです。
私はすごく短い肯定の言葉を使って一つのことで2回伝わるように声かけをするようにしています。


誰しも自分の子が可愛いのはあたりまえですが、犬は特にどこかの誰かの犬と比べて見ることが多いようです。

比べたって何がどうなるものでもないと思いますが、人によってはブランド品の品比べのように、車のグレードの違いを見定めるかのように、相手の犬が何がどのくらいできるのか、あの子はこれが出来ないけどうちの子はこれはできるとか、走るのが早いとか遅いとか性能が高いとか低いとかって比べてみています。

それがどんな意味があるのか私にはよく理解できませんが、飼い主の自尊心を満足させる何かがあるのでしょうか。


飼い主が犬の気持ちを理解し、犬にとって良い関係を築いていなくても、普通に家庭犬として可愛がられて生活することは充分に可能であるし、数年を付き合った多くの飼い犬と飼い主の関係はお互いに相手への理解が出来上がり、こういうものだという感覚がつき、そこそこうまく暮らしていけます。

通常の家庭で5歳以上になった犬との暮らしが穏やかなものが多いのは犬が年をとったからではなく犬自身が飼い主をよく知っているからです。


自分は犬の気持ちを理解して暮らしていると自負している人の多くはごく普通の飼い主に多く、暮らしていく中で問題もなく、可愛くて良い子で・・・それで充分だから、それ以上は求めないものです。

犬との暮らしはそれくらい本当は簡単なことで時間をかけられればたいていは良い関係ができ、それが人と犬の歴史の原点です。
犬と暮らすことがとても難しかったらきっと今のような人間と犬との関係は出来上がらなかったでしょう。


普通の人が多い中で、一歩踏み込んでもっと犬と理解しあいたいと望んだときから、普通の飼い主とそういうことを望んだ飼い主とは犬へ持つ期待の高さが違っているはずです。

そういう人たちが増えてくれることは犬達にとってはとても喜ばしいことであるし、人が持つ犬との間にかかる一枚のベールを剥がせたときに何かが変り始めるのだと思います。

変わり始めた人にしか犬を理解してからの時間の素晴らしさは理解することは不可能です。
何かにチャレンジする喜び、犬が自分に伝えようとすることがつかめる喜び、共に同じ事に向かって相手を気遣いながら何かを達成する喜び・・・


ごくごく普通に犬を愛し暮らすことと、もっと理解を深めようと努力していくこととは同じであるはずはありません。
得てして、理解しようともがいていく人を外側からしか見ることのできない人たちは、自分の飼っている犬よりも劣っているからそうしているのだと思う人が多くそう解釈した態度を見せるのは私は好きではありません。

私は、上を目指す人が好きです。
犬のために一緒に何かを頑張れることは犬を理解して行うのであればすべて素晴らしいことだと思っています。
犬の短い寿命を自分の長い人生の一部として分かち合って生きたいからこそ、もっともっと有意義に彼らと過ごしたいからこそ、努力を怠らない人は偉いと思っています。


だからこそ人の犬と比べて欲しくないと思うのです。。


親バカまるだしで両手放しで自分の愛犬をほめたり、応援できたりすることは決して他人からとやかく言われることではないですし、気にするような問題にはならないことです。

頑張ったことを頑張ったと評価し、かわいい子を可愛いと評価し、優れた能力を持つ犬に期待することは相手が人だってすることです。
ねたみなどで嫌みを言われても知らんふりすればいいのです。

期待もされないことのほうがずっと悲しいのですから。
相対評価は大会などで自分でチャレンジして結果として得て来れば良いもので、違いは自分だけの絶対評価ではなくなったところです。
絶対評価はその人が出来ることをどれだけ努力してきたかということで、それがあればいずれは他からの評価を得る相対評価で結果に繋がってくるでしょう。

愛犬の持つものを信じた人だけが結果を得られる相対評価をいつの日かきっと自分のものにする日が来るのだから、身近な犬と比べてああだコウだと悩んだり、自分の犬のことをよくわからない人にいろいろ言われたとしても気にするのはナンセンスという物だと思います。^m^
だって自分の愛する大事な犬のことなんですもの、親バカ万歳、犬バカ万歳でいいじゃないですか。私はいつもそう考えています。だってうちの子は一番ですもの。

2009/03/06 Fri

MAGIC流って何?

我が家にはシェルティーとダックスとポメラニアンたちが一緒に暮らしています。
・・・何頭いてもその子その子はそれぞれに違い、かけがえのない存在です。

自分達の力で犬と暮らし始めて今年2008年で15年を迎えた我が家には、楽しく素晴らしい経験を得た時もあるし、数頭の愛すべき犬たちとの別れを経験するときもありました。


我が家は一般的なブリーダーと言われる職業の人と同じような形で犬と付き合ってはおらず、繁殖に携わる子も、引退した子も、保護した子も、競技を頑張った子も、みんな一緒に暮らしています。
シェルティーの半分はドッグスポーツをしたりトレーニングもします。
ダックスやポメラニアンは愛すべき家庭犬です。


つまりは仕事用の犬というものは1頭もいません。
法律で定められるようになって形式上はペットの存在の犬と繁殖に携わっている犬との区別はされてしまいますがそれは紙面の上でのことだけです。
どの子もみんな私の大切な家族で、いわば子供と同じ存在です。


犬舎飼いという形はとっていないので俗に言うケネルではありません。
ケージはちゃんと犬の数だけ置いてあり必要であれば使えるようにはなっています。
ですが通常犬たちは部屋の中でフリーで暮らしています。

つまり一般のご家庭とほぼ同じ環境の中でたくさんの犬たちが人と一緒に暮らしています。


普通こういうところをブリーダーとは言わないと思いますが子犬を産ませてお譲りしている以上日本ではそう呼ばれるでしょう。

こんな状況で現在にいたっている我が家は特殊な繁殖家なのだろうと自覚しています。
犬をお金に換えているのだから商売人だと思う人とは感性が違うと思うので自分の犬をかかわらせてお付き合いすることは不可能でしょう。


すでに自分たちの力で犬を飼うということができるようになって15年の時が流れ、生活している半分以上の犬は10歳を超えた老犬たちになりました。
我が家から天使になった子はもう6頭になりました。

天に送った子はみんな立会いの火葬を選び、人と同じようにお経をあげてもらいます。お骨はすべて家に保管してあり、いつの日か私も天に逝く日が来たら先に逝ってしまった子たちと一緒のお墓に入れてもらう予定です。
幸い最近そういう場所もできたそうでちょっと安心しています。
毎回長い時間ペットロスに陥って、レインボーブリッジ(虹の橋)に旅立った友人を思い泣く日も少なくはありません。


不慮の事故、先天的な疾患、予後不良、直せない病気、全うできなかった寿命。獣医さんから宣告された残りの寿命をどれだけ伸ばしてきたか、どんな看護生活を送ってきたか、犬のためになぜそこまでしてしまうのか、その当時の想いも含めてこの総合サイトの中には我が家の記録が山ほど書きだされています。


そのなかで、このブログでは、MAGIC家ではどんなことを大切だと思って犬たちと接触しているかとか、愛犬家ってどんな人なのだろうとか、どんな犬を良い犬とみているのか、どんなふうに犬と暮らしているのか、何を教えたらよいと信じているのか、犬をどんなふうに解釈しているのだろうかなど、MAGIC STYLE(MAGIC流)独特の考え方としてまとめてみました。


掲げているものは、飼う人、接する人の考え方と行動次第で決まるもので、「これだ」という一つの答えはないものだと思います。
ですが、そのことを踏まえてなお、私は犬をこう見ているのですとか、こういう犬がよい犬だと思いますという私自身の意見の発信場所として掲載することにしました。


これは我が家の話であって私が思っていることであって、ほかの犬を飼う人たちにこうしてくださいというものではありません。

それをご了承いただき読んでいただければ幸いです。



家族ですと、子供と同じですとおっしゃる方はたくさんいますが、その人たちの中に自分の都合が悪くなると、家族のはずの愛犬を捨てたり、面倒をよく見なかったり、無理なことを強要したり、中には可愛くなくなってしまい虐待すらする人もいるのが現実です。
放棄犬や遺棄犬のほか、愛玩動物管理センターに持ち込まれる多くの犬が飼い犬です。最近は雑種といわれるミックス犬だけではなく純血種がたくさんいます。


我が家にいるダックスやポメラニアン、シェルティーだって持ち込まれています。

その先には死しかないと知らないのでしょうか?

誰かがもらってくれると安易に考えているのでしょうか?

死の淵から助け出される子はほんの少ししかいません。
毎日毎日殺されています。
持ち込んだ人が殺したも同然なのに、自分の手が汚れなければ関係ないのでしょうか?自分さえ楽になれれば殺しても気にならないのでしょうか?


うちから生まれた子がそんな目に会うのは絶対に嫌です。
だから子犬を譲る約束の中に飼えない事情ができたら必ず我が家に帰してくださいとお願いしています。

虐待なんて、テレビの中の対岸の火事だと思っていた我が家にさえ、あんなにかわいがってもらっていたはずの子が、食べ物もろくに貰えずにまるはげになるほどの栄養失調に追い込まれ、今まであった体重の半分にまでやせ衰える状態で保護するという現実がありました。


数日遅かったら死んでいたかもしれなかったのです。
そんな事をした人も元はとっても犬が好きな、俗にいう愛犬家でした。
状況が分からず連絡が取れずどれほど心配したか…。
あの人たちには私たち家族の想いも、あの子が死ぬほど飢えて精神状態さえおかしくなりかけていたことも意に解さない大したことではなかったことが悲しいです。
そんな風に変化を起こすことが最初からわかっていたら決してあの子を渡したりはしなかったでしょうに…。
今更ながら人を見る目のなさに自己嫌悪に陥ります。


テレビで動物虐待のニュースを聞き、特集を見てひどいと感じる人はたくさんいるはずです。
でも・・・人間不信になった犬たちの悲しい目から人は何を学ぶのでしょう?
意図的にしていない人もいるのはわかっても、怖くてたまらない恐怖の目の色を見て悲しさで胸が苦しくなります。
私は、人の姿をみるだけで震えが止まらない犬が映し出されることはそうさせた相手が人であることに理由はどうあれ体がわなわな震えるほど怒りを覚えます。
人はどうして言葉もかいせない賢く美しい生き物を虐待できるのか、モノのように扱い、人と同じように扱うことができないのはなぜなのか、いまだに私には理解できません。


犬だって年もとるし、怪我もするし、病気にもなるし、絶対安静が必要な時もあるし、毎日通院が必要だったり、手術を受けなくてはならなくなったり、入院しなくてはならないこともあるでしょう。
いつまでも元気で何事もなく飼い主に迷惑をかけることなく一生を終えるとは限らないのです。


命が生まれるとき、遺伝子は多くの変化を起こしてたった一つの命を誕生させます。
病気になったとしてもそれは親から受け継いだものから発症するとは限らないことも沢山あります。
癌や脳疾患や糖尿病や腎臓疾患、肝臓疾患。
病気によって解明されていることもあるし、まだわからないことだらけのものもあります。
一口に遺伝疾患と呼ばれて獣医さんから通告される病気でさえ、メンデルの法則に従って発症するものばかりではありません。
生き物である以上、遺伝子は何かしらの変化を起こしてその命を誕生させてくるのですから何があっても可笑しくない事のほうが事実です。
犬のDNAの解析はようやく数年前(2005年)実現しました。やっとスタートにつけた状態です。

そして、彼らの寿命は人に比べればはるかに短く、長くても17・8年が限界に近い年数です。
犬と暮らし始めたら、毎日付き添ってそばにいてあげなければならない時だってあるでしょう。
夜も眠らずに見守らなくてはならない時もやってくるかもしれないのです。
寝たきりにでもなったら床ずれができないようにしょっちゅう体を動かしてあげなければならなくなることもあるのです。


相手が犬でも人でも、その時々に応じて今何が必要で今は何をしなくてはならないかの判断は、残された生きられる時間にさえかかわってくることもあるのです。
犬を迎え入れるということはただ可愛いとか、癒されるからとか、役に立つとか楽しめるとかだけではなく、必ずと言っていいほどやってくる人と同じリスクも受け入れなくてはならないはずです。
自分以外のほかの人間と共に暮らすとしたら当然起きるだろうことが、犬と暮らすことにおいても起きるのですから。

死ぬまで何事も無く健康なまま毎日を過ごし続け、亡くなる時も苦しまずに眠るように逝ける子がいたとしたら、それは非常に稀なラッキーなことだったに過ぎません。

たいていの犬たちはたいていの人間同様に、何かしらの疾患を抱え、細胞の劣化によって老化して寿命を迎える日が来るのですから。


犬を迎え入れるということは独身とサヨナラすることです。
相手は犬でも、1+1で2になってしまうのですから結婚して伴侶を得たのと似ています。
相手は大人の人とは違い手のかかる赤ん坊と同じです。
独身時代のように自由気ままに好き勝手はできなくなります。
でも、相手を愛していたら苦にならない程度のことでしょう。
人同士だって伴侶を選んだら自分勝手なことばかりしていたら一生穏やかに想いあって暮らしていくことはできません。それと同じです。


病気になったときや年をとった時にも、人医と同じで犬にも医療事故だって起きるだろうし、相手が医者であっても何もかも鵜呑みにして信じていればすべてがいつもうまくいくわけではないのは同じです。
人ですら家族を守れるのは自分たち自身の注意力であるように、愛犬を守れるのも飼い主自身でしかありません。
犬ごときにいつもの生活を乱されるのは困るとかめんどくさいなと思う人は家族として迎えたという言葉の意味はないし、認識もないのでしょう。


人だって、怪我をしたり病気になったり年をとっていく時に、看病・看護が嫌だとか、年をとったら邪魔になると感じるのなら、その状態になっているものたちに適切なことはしてあげられるとは思えません。
犬たちだって人と同じように老化がはじまり、今までできたことができなくなっていくのだという認識も必要です。
病気になった子を看病するときにも彼らが心細くならない配慮も必要になるし、怪我をしてしまったら完治させることを最優先に考えた行動をしなければならなくなるのは人に対してと全く同じことです。


私は日本人なのでペットに対しての最先端の海外の考え方にいまだに納得できない部分を持っています。
まだ頑張れる子を人の手間がかかるからとか元気な時のようにごくふつうに行動できなくなるからと、または痛みが起きる前に苦しむ前に安易に安楽死を選択するような考え方は今だに賛成できません。


かといって何が何でも生きてそばにいてと大切な友人を苦しめたくもありません。
犬とともにがんばれるだけがんばって彼らが生きていること自体が苦痛であるその最後の時が来たら眠らせてあげることは愛の証しかもしれないとも思っています。
でもその日を迎えるまでにともに病魔やけがと闘い、がんばればこその決断だと思います。


MAGICSTYLEはいわば「MAGIC流」という意味で掲げてあり、犬に対する考え方や自分たちの経験則からの行動と、提案や自分なりの良い犬の定義とか、こういう犬に育てたいとか、こんな場合にはこうしているよという我が家流の犬との暮らし方自体をこう呼んでいます。

もちろんMAGICSTYLE(MAGIC流)という独自のものなのでこれが犬を飼うことについて絶対的に正しいよと言うつもりはありません。
私の作ったMAGICWORLDのなかを読んだ方が、共感してくださっても、違うんじゃないかと疑問を持たれても、それぞれに判断していただければと思っています。


そんな考え方もあるんだねとか犬をそういう風にみているのかと知ってもらいたくて書き連ねたページの集大成がここです。

独断と偏見で犬への理解がまだまだ不十分な社会通念であると感じている私たちMAGICSTYLEから、彼らが素晴らしい伴侶となるだけの資質を備えた生き物だという事実や、犬のまだ確定されていない素晴らしい能力を引き出すためにどんなことを伝えているのかとか、また、犬と暮らすってどんなことを言っているのか私たちの犬の愛し方を伝えるために書き綴った頁です。


読み重ねていただければ、私たちが犬と暮らすとはどんなことだと言いたいのか、どれほど愛しているのかが伝えられるかもしれないと思っており、犬と暮らすことになるほどねと言う新しい発見をひとつでも残せたらと願っています。
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