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2009/03/06 Fri

MAGIC流って何?

我が家にはシェルティーとダックスとポメラニアンたちが一緒に暮らしています。
・・・何頭いてもその子その子はそれぞれに違い、かけがえのない存在です。

自分達の力で犬と暮らし始めて今年2008年で15年を迎えた我が家には、楽しく素晴らしい経験を得た時もあるし、数頭の愛すべき犬たちとの別れを経験するときもありました。


我が家は一般的なブリーダーと言われる職業の人と同じような形で犬と付き合ってはおらず、繁殖に携わる子も、引退した子も、保護した子も、競技を頑張った子も、みんな一緒に暮らしています。
シェルティーの半分はドッグスポーツをしたりトレーニングもします。
ダックスやポメラニアンは愛すべき家庭犬です。


つまりは仕事用の犬というものは1頭もいません。
法律で定められるようになって形式上はペットの存在の犬と繁殖に携わっている犬との区別はされてしまいますがそれは紙面の上でのことだけです。
どの子もみんな私の大切な家族で、いわば子供と同じ存在です。


犬舎飼いという形はとっていないので俗に言うケネルではありません。
ケージはちゃんと犬の数だけ置いてあり必要であれば使えるようにはなっています。
ですが通常犬たちは部屋の中でフリーで暮らしています。

つまり一般のご家庭とほぼ同じ環境の中でたくさんの犬たちが人と一緒に暮らしています。


普通こういうところをブリーダーとは言わないと思いますが子犬を産ませてお譲りしている以上日本ではそう呼ばれるでしょう。

こんな状況で現在にいたっている我が家は特殊な繁殖家なのだろうと自覚しています。
犬をお金に換えているのだから商売人だと思う人とは感性が違うと思うので自分の犬をかかわらせてお付き合いすることは不可能でしょう。


すでに自分たちの力で犬を飼うということができるようになって15年の時が流れ、生活している半分以上の犬は10歳を超えた老犬たちになりました。
我が家から天使になった子はもう6頭になりました。

天に送った子はみんな立会いの火葬を選び、人と同じようにお経をあげてもらいます。お骨はすべて家に保管してあり、いつの日か私も天に逝く日が来たら先に逝ってしまった子たちと一緒のお墓に入れてもらう予定です。
幸い最近そういう場所もできたそうでちょっと安心しています。
毎回長い時間ペットロスに陥って、レインボーブリッジ(虹の橋)に旅立った友人を思い泣く日も少なくはありません。


不慮の事故、先天的な疾患、予後不良、直せない病気、全うできなかった寿命。獣医さんから宣告された残りの寿命をどれだけ伸ばしてきたか、どんな看護生活を送ってきたか、犬のためになぜそこまでしてしまうのか、その当時の想いも含めてこの総合サイトの中には我が家の記録が山ほど書きだされています。


そのなかで、このブログでは、MAGIC家ではどんなことを大切だと思って犬たちと接触しているかとか、愛犬家ってどんな人なのだろうとか、どんな犬を良い犬とみているのか、どんなふうに犬と暮らしているのか、何を教えたらよいと信じているのか、犬をどんなふうに解釈しているのだろうかなど、MAGIC STYLE(MAGIC流)独特の考え方としてまとめてみました。


掲げているものは、飼う人、接する人の考え方と行動次第で決まるもので、「これだ」という一つの答えはないものだと思います。
ですが、そのことを踏まえてなお、私は犬をこう見ているのですとか、こういう犬がよい犬だと思いますという私自身の意見の発信場所として掲載することにしました。


これは我が家の話であって私が思っていることであって、ほかの犬を飼う人たちにこうしてくださいというものではありません。

それをご了承いただき読んでいただければ幸いです。



家族ですと、子供と同じですとおっしゃる方はたくさんいますが、その人たちの中に自分の都合が悪くなると、家族のはずの愛犬を捨てたり、面倒をよく見なかったり、無理なことを強要したり、中には可愛くなくなってしまい虐待すらする人もいるのが現実です。
放棄犬や遺棄犬のほか、愛玩動物管理センターに持ち込まれる多くの犬が飼い犬です。最近は雑種といわれるミックス犬だけではなく純血種がたくさんいます。


我が家にいるダックスやポメラニアン、シェルティーだって持ち込まれています。

その先には死しかないと知らないのでしょうか?

誰かがもらってくれると安易に考えているのでしょうか?

死の淵から助け出される子はほんの少ししかいません。
毎日毎日殺されています。
持ち込んだ人が殺したも同然なのに、自分の手が汚れなければ関係ないのでしょうか?自分さえ楽になれれば殺しても気にならないのでしょうか?


うちから生まれた子がそんな目に会うのは絶対に嫌です。
だから子犬を譲る約束の中に飼えない事情ができたら必ず我が家に帰してくださいとお願いしています。

虐待なんて、テレビの中の対岸の火事だと思っていた我が家にさえ、あんなにかわいがってもらっていたはずの子が、食べ物もろくに貰えずにまるはげになるほどの栄養失調に追い込まれ、今まであった体重の半分にまでやせ衰える状態で保護するという現実がありました。


数日遅かったら死んでいたかもしれなかったのです。
そんな事をした人も元はとっても犬が好きな、俗にいう愛犬家でした。
状況が分からず連絡が取れずどれほど心配したか…。
あの人たちには私たち家族の想いも、あの子が死ぬほど飢えて精神状態さえおかしくなりかけていたことも意に解さない大したことではなかったことが悲しいです。
そんな風に変化を起こすことが最初からわかっていたら決してあの子を渡したりはしなかったでしょうに…。
今更ながら人を見る目のなさに自己嫌悪に陥ります。


テレビで動物虐待のニュースを聞き、特集を見てひどいと感じる人はたくさんいるはずです。
でも・・・人間不信になった犬たちの悲しい目から人は何を学ぶのでしょう?
意図的にしていない人もいるのはわかっても、怖くてたまらない恐怖の目の色を見て悲しさで胸が苦しくなります。
私は、人の姿をみるだけで震えが止まらない犬が映し出されることはそうさせた相手が人であることに理由はどうあれ体がわなわな震えるほど怒りを覚えます。
人はどうして言葉もかいせない賢く美しい生き物を虐待できるのか、モノのように扱い、人と同じように扱うことができないのはなぜなのか、いまだに私には理解できません。


犬だって年もとるし、怪我もするし、病気にもなるし、絶対安静が必要な時もあるし、毎日通院が必要だったり、手術を受けなくてはならなくなったり、入院しなくてはならないこともあるでしょう。
いつまでも元気で何事もなく飼い主に迷惑をかけることなく一生を終えるとは限らないのです。


命が生まれるとき、遺伝子は多くの変化を起こしてたった一つの命を誕生させます。
病気になったとしてもそれは親から受け継いだものから発症するとは限らないことも沢山あります。
癌や脳疾患や糖尿病や腎臓疾患、肝臓疾患。
病気によって解明されていることもあるし、まだわからないことだらけのものもあります。
一口に遺伝疾患と呼ばれて獣医さんから通告される病気でさえ、メンデルの法則に従って発症するものばかりではありません。
生き物である以上、遺伝子は何かしらの変化を起こしてその命を誕生させてくるのですから何があっても可笑しくない事のほうが事実です。
犬のDNAの解析はようやく数年前(2005年)実現しました。やっとスタートにつけた状態です。

そして、彼らの寿命は人に比べればはるかに短く、長くても17・8年が限界に近い年数です。
犬と暮らし始めたら、毎日付き添ってそばにいてあげなければならない時だってあるでしょう。
夜も眠らずに見守らなくてはならない時もやってくるかもしれないのです。
寝たきりにでもなったら床ずれができないようにしょっちゅう体を動かしてあげなければならなくなることもあるのです。


相手が犬でも人でも、その時々に応じて今何が必要で今は何をしなくてはならないかの判断は、残された生きられる時間にさえかかわってくることもあるのです。
犬を迎え入れるということはただ可愛いとか、癒されるからとか、役に立つとか楽しめるとかだけではなく、必ずと言っていいほどやってくる人と同じリスクも受け入れなくてはならないはずです。
自分以外のほかの人間と共に暮らすとしたら当然起きるだろうことが、犬と暮らすことにおいても起きるのですから。

死ぬまで何事も無く健康なまま毎日を過ごし続け、亡くなる時も苦しまずに眠るように逝ける子がいたとしたら、それは非常に稀なラッキーなことだったに過ぎません。

たいていの犬たちはたいていの人間同様に、何かしらの疾患を抱え、細胞の劣化によって老化して寿命を迎える日が来るのですから。


犬を迎え入れるということは独身とサヨナラすることです。
相手は犬でも、1+1で2になってしまうのですから結婚して伴侶を得たのと似ています。
相手は大人の人とは違い手のかかる赤ん坊と同じです。
独身時代のように自由気ままに好き勝手はできなくなります。
でも、相手を愛していたら苦にならない程度のことでしょう。
人同士だって伴侶を選んだら自分勝手なことばかりしていたら一生穏やかに想いあって暮らしていくことはできません。それと同じです。


病気になったときや年をとった時にも、人医と同じで犬にも医療事故だって起きるだろうし、相手が医者であっても何もかも鵜呑みにして信じていればすべてがいつもうまくいくわけではないのは同じです。
人ですら家族を守れるのは自分たち自身の注意力であるように、愛犬を守れるのも飼い主自身でしかありません。
犬ごときにいつもの生活を乱されるのは困るとかめんどくさいなと思う人は家族として迎えたという言葉の意味はないし、認識もないのでしょう。


人だって、怪我をしたり病気になったり年をとっていく時に、看病・看護が嫌だとか、年をとったら邪魔になると感じるのなら、その状態になっているものたちに適切なことはしてあげられるとは思えません。
犬たちだって人と同じように老化がはじまり、今までできたことができなくなっていくのだという認識も必要です。
病気になった子を看病するときにも彼らが心細くならない配慮も必要になるし、怪我をしてしまったら完治させることを最優先に考えた行動をしなければならなくなるのは人に対してと全く同じことです。


私は日本人なのでペットに対しての最先端の海外の考え方にいまだに納得できない部分を持っています。
まだ頑張れる子を人の手間がかかるからとか元気な時のようにごくふつうに行動できなくなるからと、または痛みが起きる前に苦しむ前に安易に安楽死を選択するような考え方は今だに賛成できません。


かといって何が何でも生きてそばにいてと大切な友人を苦しめたくもありません。
犬とともにがんばれるだけがんばって彼らが生きていること自体が苦痛であるその最後の時が来たら眠らせてあげることは愛の証しかもしれないとも思っています。
でもその日を迎えるまでにともに病魔やけがと闘い、がんばればこその決断だと思います。


MAGICSTYLEはいわば「MAGIC流」という意味で掲げてあり、犬に対する考え方や自分たちの経験則からの行動と、提案や自分なりの良い犬の定義とか、こういう犬に育てたいとか、こんな場合にはこうしているよという我が家流の犬との暮らし方自体をこう呼んでいます。

もちろんMAGICSTYLE(MAGIC流)という独自のものなのでこれが犬を飼うことについて絶対的に正しいよと言うつもりはありません。
私の作ったMAGICWORLDのなかを読んだ方が、共感してくださっても、違うんじゃないかと疑問を持たれても、それぞれに判断していただければと思っています。


そんな考え方もあるんだねとか犬をそういう風にみているのかと知ってもらいたくて書き連ねたページの集大成がここです。

独断と偏見で犬への理解がまだまだ不十分な社会通念であると感じている私たちMAGICSTYLEから、彼らが素晴らしい伴侶となるだけの資質を備えた生き物だという事実や、犬のまだ確定されていない素晴らしい能力を引き出すためにどんなことを伝えているのかとか、また、犬と暮らすってどんなことを言っているのか私たちの犬の愛し方を伝えるために書き綴った頁です。


読み重ねていただければ、私たちが犬と暮らすとはどんなことだと言いたいのか、どれほど愛しているのかが伝えられるかもしれないと思っており、犬と暮らすことになるほどねと言う新しい発見をひとつでも残せたらと願っています。

2009/03/06 Fri

ドッグランについて

都内にドッグランを作ってくださいと区議会議員を通してお話したのは、1993年の秋でした。。。
当初、ドッグランというもの自体区の会議で説明してもけんもほろろの状態にしかならないと『なかなか力になれなくて』と何度も謝られたものでした。。。


あきらめずに毎年毎年お願いし続けてきました。
これを書いているのは2000年です。。。
日本、特に都内にはまだ『ドッグラン』と言う犬をノーリードに出来る広場が非常に少ないです。
特に郊外には大きな公園などに設置されたり、ドッグパークのようなところやペンション等に付属施設として作られるようになりましたが、1頭当たり1000円ほどの使用料が多いようです。
5頭もいれば5000円。
そして車に乗って出かけていかなければ利用できません。
毎日のお散歩や訓練のために使いたい『公的な無料の施設』の『ドッグラン』は皆無に等しいのです。
区の公園などはリードをつけていても入ることが出来ないと言うのが現状なのに。。。


(2005年現在都内でも多くの公共のドッグランが開設されるようになりました。また私の住む杉並区でも草の根的な努力の甲斐あって近所の公園はリードつきの条件の元なら入れるようになり新しく出来た公園も同じようにリード付きでの入園が許可されるようになりました)

しかし安易に『ドッグラン』が『無料』で、『自由』に使えると今の段階ではきっと中で問題が発生してしまうでしょう。
これには犬を飼う人のモラルの問題と知識不足にも寄ると思います。
大型犬と小型犬は良く知った相手で無ければ簡単にはうまく遊べないでしょう。
怪我をする可能性すらあります。


糞尿の問題。。。
うんちは拾って片付けることも可能だと思いますが、おしっこはどうでしょうか?
『この場所で』とさせることが出来る人がどのくらい利用者の中にいるでしょうか?
『ドッグラン』の片隅に水の流せるコンクリート張りの仕切られた排水施設があり、そこで必ずおしっこやうんちを済ます習慣が出来れば問題はだいぶクリアされるはずです。

水道使用料くらいは払ったって撥は当たりません。(笑)


(現時点でのドッグランの状況は放せない犬を放せる場所という観念で連れてくる飼い主もいるし、井戸端会議に夢中で自分の犬が何をしているのかを見ていない飼い主もいます。
ですから中には自分の犬が糞をしたのもわからずそれを拾わない飼い主もいるようでドッグランの開設に関わったボランティアの人たちが処理をしているような状況も有ります。)


ノミやダニのような寄生虫、感染症の問題(予防注射)吠え声の問題しつけられた犬なのかどうか、必ず呼び戻しが聞くのか、けんかをしないか、他の人に噛み付いたり飛びついたりしないイヌなのかやヒート中(生理)の雌犬は連れてこないとかの暗黙の了解になるべき部分にも目をやらなければならないのです。

そのためには、試験的に行ってみる必要もあり、利用者の特定も最初は必要でしょう。
誰もが自由に使えるのが理想ですがそれには犬を飼う人たちのモラルの差がありすぎるからです。
犬を飼えば登録するのですからそれを利用しても良いはずです。
『ドッグラン』を利用する人だけは別に利用料を支払っておくなどとすればいいと思うのです。
病院にお見舞いなど行く時、必ず面会者のノートに記入して番号をもらっていくようにしたり、最初から登録制にしたり、方法は考えればきっと良いものがあるはずです。
現実にはこうしたことは討論される余地がないままに実質的に運営の運びとなっています。


ですから中にはトラブルも起こることがあるし、追い掛け回されたり、果ては抱え込まれたりと言う悪条件になることも否めません。
また、遊具等の持込ができない場所が多々あります。
ボールやフリスビーなどは犬同士の喧嘩の元になるからとの事ですが、物への欲性でよしとしている犬ばかりが多いためで本来の飼い主と犬との関係が成り立っていないからでしょう。


場所は、結構開いている土地はあるものです。
近隣の迷惑等を考えるなら、高速道路の下なんかは使えないのかしらと考えます。
フェンスで囲ってあり、自転車の駐輪場や駐車場に使用されているところもありますが、歩きながら見てみると開いているところが多いはずです。
上は車が通っていますから音も気にならないでしょう。


都内には大きな公園がたくさん点在しています。
都の公園もあれば区の公園もあります。
その中に囲まれたテニスコート2面くらいの広さでも良いから隔離できる広場があれば、犬の嫌いな人たちとのトラブルや、モラルの低い飼い主とのトラブルも避けられるようになるのにと思うのです。
野球場ほどの広さを犬の飼い主のためだけに開放しろと言うのではありません。
犬好きの人にも犬嫌いの人にも、おたがいの利便性のために、同じ公園を利用するならフェンスが必要だと思うのです。

(この点においては2005年現在、ドッグランが開設されたことは大いに進展があったと評価するべきだと思っています。)


トラブルが起きた後に開放されていた場所がつかえなくなることほど悲しいものはありません。
これからできるものなら、できるだけのことを考慮して慎重に開放への道を見つけるしかないのです。
社会的にも犬に対する関心度は高く、精神面でも非常に役立つ動物であることも証明されています。
最近では公団でさえ有料で犬を飼う事がOKになったところもあるのです。
時代は確実に変わってきているのですから。。。


犬の事に関して言えば、介助犬や聴導犬のように、盲導犬と同じワークドッグにもかかわらず盲導犬で無いと言う理由から同じ保護を受けられないと言う矛盾した状況の中で、一般の愛犬家たちの要望がどれほど国に届くのかはわかりませんが、何かの努力を続けていかなければ、未来は広がらないでしょう。早く『ドッグラン』ができて欲しいものです。

そのために、どんな人からも可愛がられる良い犬に育てる努力を怠らないように毎日を頑張っていくしかないのかもしれません。
いつか理想のドッグランができたとき、愛犬たちとともに一緒に遊びましょう。。。



2005年、犬たちの環境は徐々に良くなりつつあります。
空前のペットブームも重なり多くの愛犬家の努力の賜物と思っています。


しかし、我家は未だに貸切のドッグラン専門で後は時間帯を考えできるだけ他の犬がいない時間帯に公共のドッグランへの出没を心がけています。
なぜなら私たちは自分の愛犬とともに遊具を使ったり一緒に走り回ったりして遊びたいための場所としてドッグランが必要だからなのです。
愛犬と他の人の犬のあそぶのを見たいから利用しに行くのではないからです。

犬の教育としての訓練もしたいし、そのためにはリードを放さなければならないことが多々あります。
そういうことに利用できるドッグランは余りに犬の教育ができていない多くの飼い主と一緒にならざるを得ない部分が多く二の足を踏む状態が続きます。


ドッグランとは何ぞや。。。?難しいなと今は思っています。


犬と暮らすといっても多くの家庭では1頭の犬と暮らすことが多いのでしょう。だからこそ他の犬と遊ばせる場所と考えるなら今のドッグランは良いものなのかも知れません。
あとは飼い主次第と言う事になるのでしょうか。。。


2006年杉並区内にドッグランの設置がされたそうですがまだ行っていません(笑)
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