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2009/03/06 Fri

繁殖する人たちへ

シェルティーを繁殖する上で知って置くべきことや、注意しなければならないことは数多くあります。
一度や二度仔犬を産ませて人に渡したからといってブリーダーとは言えません。。。
それはただ単に繁殖したこと(犬に子供を産まさせた事がある)があるというだけだと思うのです。
シェルティーという犬種のことを把握し、理想の犬が自分の中にあり、それを求めてさまざまな研究をし勉強をし経験をつみ繁殖に望み子犬の行く末の責任を持つ人がブリーダーではないかと思うのです。


中でも経験というものはとても重要なものだと思います。
犬の繁殖はやりようによってはとても簡単なことです。
繁殖に使われる犬がどんな暮らしをするかは持っている人で決まります・・・

ブリーダーでなくても、シェルティーを繁殖する人はいるでしょう。
生まれた子犬は幸せになるために、また人を幸せにするために生まれてきます。
仔犬の行く末まで責任を持てるなら、犬の赤ちゃんの誕生は人生の中で何よりすばらしい経験になるはずです。
でも・・・赤ちゃんが見たいからとか一頭だけ残したいからと安易に繁殖をしないで欲しいと思っています。


犬はたくさん赤ちゃんを産みます。
買い手が見つからなくても普通の愛犬家が繁殖して業者等に渡すのは喜ばしいことではない気がします。
愛犬が命をかけて生んだ子が、知らないところで放置されていたり、虐待されていたり、保健所等で処分されたら悲しいでしょう?
そんなことにならなくても子犬の行った先さえまったくわからなくなるのですから・・・
行き先がわからないと言う事は、自分の産ませた子が後々思いもかけない状況にさらされている事が発覚することもあります。

自分はしようと思わなかった無責任な繁殖に使われていることだってあるのです。


わたしはそうした未来を持つ犬を産ませたくないと考えています。

今出来ることは自分が産ませた子犬たちのことしか出来ませんが、こうしてページを開いて意見を述べているのはひとえに大好きな犬達の幸せを願っての事です。

自分の犬たちにしてあげられること以外でできることは、意見を述べることで愛犬を繁殖しようと考えている人たちにこういう自体も考えられるのですよと知って欲しいからです。

思いとどまる人もいるでしょうし、繁殖する人もいるでしょう。
繁殖がいけないと言ってるのではないことをわかって欲しいと思います。


責任を持って生涯育てていけるひとを見つけるのはなかなか難しいことです。貰い手が見つからなかったら全部自分で飼う事ができるくらいでいて欲しいと願っています。
シェルティーもダックスも数頭生まれるのが標準ですが中には8頭とか10頭とか生まれてくることもあります。
中には先天的に問題を抱えて生まれてくる子犬だって絶対にいないとはいえません。
沢山勉強しいろんなことを考慮して繁殖に望んでもです。
母親が死んでしまうこともあるのです。。。
又俗説として子犬を産ませたほうが体のために良いとか病気になりにくいとか思う人も多いようです。


決して赤ちゃんを産ませることは犬のために良いことばかりではありません。
いろんな状況を良く考えた上で繁殖に携わって欲しいと思います。

2009/03/06 Fri

優しさと溺愛の違い

溺愛とは「相手を客観的に見る目を失い、むやみにかわいがること」で盲愛とも言われます。
これはその人自身が感じるものではなくはた目から見るとそう見える可愛がりようだということでしょう。
我が家もきっと人が見たらシェルティーはもとよりダックス・特にポメラニアンの2頭にはデレデレの溺愛飼い主に見えることと思います。


自分自身が責任感なくわがままを受け入れているという自覚があった場合、溺愛というのかどうかはわかりませんが、適当な言葉が思いつかないので同じ意味に使っています。


人間の子供の場合、親の立場であるものは溺愛しては子供は社会に受け入れられるような大人に育てるのが難しくなるはずです。
なんでも思い通りになるという解釈しかできなかったり自己中心的な考え方しか持たないように育ってしまったら社会には受け入れてもらえません。
親は子供を教育し育てるという役目を本能で担っています。
育てることに、教育することに責任を持っていない、おじいちゃんやおばあちゃんとは違う立場にいます。


もちろん育成にかかわるものは実際に子供が生まれるための両親でなくても、全て産んだ後に育てる親の立場と同じ行動をとるようになることが人だけでなく多くの生き物の本能として知られています。
その関係は、子供自身に対して他種による場合、血縁関係のない同種のものから、血縁である祖父、祖母、親戚関係のような立場、兄弟姉妹の場合もあるとのことです。


祖父や祖母が孫を溺愛するのは、親が教育を担当し生きるために必要な事柄を学ばせているからこそ、その部分において担当する必要性がないので溺愛することができるのです。

こっちはかわいがるだけで嫌われるようなことはしないのだから、いい身分だなぁと思うことしばしばですが(笑)信頼という部分においては親に軍配が上がることは周知の事実です。
つまり、相手にとって都合のいいことばかり与えてもよい関係は生まれないということなのだと思います。



家族という一つの群れの構成の中に、犬を社会的に認めてもらえるような後ろ指をさされないですむよい犬に育てる役目を担う人がいなかったら、犬は傍若無人にふるまうわがままなまま育ちます。
周りに存在する人間が親の立場になるものがいなければ早い時期からリーダーが不在である認識を持ち、成長するに伴って自分がリーダーとなろうとするのです。


ふわふわでかわいいあまりに溺愛したくなる気持ちもわからなくはないですが、犬も子供と同じように成長する部分があります。
そして人と暮らす以上、野生の犬と違って学ばなければならないことはたくさんあります。
犬を飼った以上飼い主はその犬の親としてふるまい、必要な教育をしていかなければなりません。

つまり溺愛していたら育てられないということになります。


心から愛することは溺愛とは違います。
相手を客観的に見つめることができる愛は溺愛よりもずっと尊いものです。
親だからこそ与えることのできる無償の愛は溺愛とは違う優しさです。


犬をかわいがることの優しさと溺愛との違いをよく認識して犬に接することが重要です。
犬はとてもそういう部分において敏感で頭がいい生き物なのですから、溺愛されているのか、心から愛されているのかの違いをいとも簡単に見分けるでしょう。

2009/03/06 Fri

体罰か虐待か

犬や猫を虐待していたというニュースが後を絶たない悲しい日本という国に住んでいます。
ニュース等で発覚するものは明らかに犬や猫の命を奪うほど悪辣なものもありますが、実際にはごく一般の人たちが本来は虐待に近い行為を平気で行っているという現実のほうが怖いと思います。


犬たちが明らかに嫌がっていることを強要するのも実は虐待と言えるのではないかと思うこともしばしばです。


ですが、虐待という言葉の意味をよく知らずに、単に軽い痛みや恐怖感を与える行為につながったからとすべてを虐待呼ばわりするのはどうかなぁ?と考えています。


犬は生きることを学ぶために母親や仲間の犬たちから多少の痛みを与えられて学ぶことがあります。
これは人間も同じです。
このレベルのことを虐待と言ったり暴力と言ってしまったら生きる知恵もつかずに育つことになってしまうでしょう。


固定されたものにぶつかれば痛いと知っておくことのほうがずっと重要なのに、ぶつからせることなく伝えようとしても理解は得られません。

盲導犬のように命を守るために車が危険であることを認識させるためにはぶつからせることはなくても走っている車が危険であることを恐怖を与えて学ばせます。最終的に自発的に理解し行動する様にまでトレーニングしますが、これを「利口な不服従」という呼び方もします。


通常首輪をつけてひもをつけて歩く行為は犬が苦しくないように歩いていなければ虐待に近いものと考えてもおかしくはありません。
首のような繊細な場所にひもなどを付けずに胴輪のほうがずっと犬に対して安全です。
引っ張れば首が閉まってしまうチョークなどはなおさら虐待の道具呼ばわりされがちですが道具は使い様なはずです。引っ張る状況で無ければなんら抵抗の無い首を絞めるはずの首輪は、その状況なら微塵も負担をかけない道具となります。


本来、物には使い方というものがあって、犬に負担にならないように使えるように設定されているものです。

使い方が違うから虐待まがいになるわけです。
教える方法論も同じくです。
正しく使えれば首輪もチョークも胴輪も同じものとなるでしょう。
その犬にあう方法論が一番であり、合わないものを強要し続けるのはいかがでしょうか?


ぶつかったら怪我をするようなものは痛みが伴うから覚えられます。
じゃれ合いだってやりすぎたら喧嘩に発展することも経験がなければ理解できずにいます。
どの程度強くかんだら相手が嫌がるのか、どの程度かまれたら自分は嫌なのか、犬たちも何事も経験から学ぶことが多いのです。


しつけの方法論には痛みが伴ったり多少の恐怖心を利用したりすることを異常に警戒しいけないことだと伝えているものもありますが、本当の意味で虐待につながらないものについての理解を正しく持たないと反対に犬たちに正しいことを教えられないと感じています。


叱るという行為も、禁止するという行為も、生きるために必要なことの学習方法として生き物すべてが持っています。それは親が子供を育てていく際に脈々と受け継がれている事実から推測できるでしょう。

それをいかに有効利用するかが大切なのであって、言葉に惑わされずにいたいものだと考えています。


虐待行為を受けた犬とそうじゃない犬とでは明らかに表現が違います。

人を信じ明るく表現するような犬を連れて歩くことで、いけないことはいけないと叱っても、やってほしくないことは禁止しても、それを学ばせるために使う手段が犬にとって逃げ出すような恐ろしい行為だったり忘れられないトラウマになるような行為でない限り、虐待といわれる必要はないと思います。


虐待とは意味もなく犬を殴ったり蹴ったりすることで、怪我につながるような暴力を与えることです。
そして水を与えないとか餌を与えないとか生死にかかわる制限を与えることです。
狭いケージに長時間閉じ込めておくとか、犬を無視し続けて精神的に追い込むなど、吠える犬の口をひもで縛ったり、飼い主としての責任を放棄したり、病気の犬を見放したり、理解させて学ばせる努力をせずに黙らせようと叩き続けるような行為のことを言うはずです。


言葉の意味は正しくとらえて使いたいと考えています。

2009/03/06 Fri

犬の行動修正のポイント

犬の行動を修正する作業の中で、アプローチが完全なのに、詰めが甘いのかなかなか最終形態に行かないことがあります。たいていは本当に詰めが甘い!?(笑)


つまりある程度理想に近く修正できるとゴールは見えたしぃ〜とラストまでスパートしないで途中でふらふら〜ッと手を抜いて(笑)気がついたらゴールはもっと先だったじゃないかって泡を食うパターン。

私も昔、良くやりました。今でもたまに遭遇します。


でもこういうものとはまったく違うものがあります。
行動修正のパターンは確かに方法論としては星の数ほどあり、問題となっている犬に合う方法合わない方法と色々あります。
合う方法がピタッととハマればその場ですぐにこちらの望んだ答えが返ってくるのがまた面白いと思いますが、瞬間は帰ってくるのに持続していかないものがあるのです。
この場合には後ろに何か大きな本当の理由が隠されているわけです。


飼い主の思ったように犬が行動を起こさない本当の理由は犬のリーダーになれていないからが多いのです。私の場合このリーダーという意味は犬たちの親になるという意味で使っていますが。

飼い主は問題行動のみに焦点を当ててしまうために、日ごろの生活の中で犬との関係がどうなっているかの自覚がないことが多いのです。


隠れている違う問題を解決しないと飼い主自身が解決したい目に見えている問題は解決されません。


たいていのことは飼い主自身が犬達のリーダーになれさえすればほぼ解決できることばかりです。。
それなのにリーダーになろうとしない飼い主はとてもおおいことは不思議です。


【なれない】のではなく【ならない】のダナと思うような理由を多く聞くので飼い主自身が。【ならない】のじゃどうしようもないのですが・・・。(苦笑)


犬の気持ちが解るとか言葉が聞こえるとか平気で言えちゃう人たちは間違いなく犬を見下していない共通点を持っています。
不思議だなぁって思うけど、犬と会話が成り立っている人たちはみな人と同格に犬を尊重しているのです。


誰もがみな犬が好きだから、生き物が好きだから・・・そうなれるわけじゃないところが不思議なのだけれど・・・。



私にはペットでカエルとかレッドシュリンプとかいるけど、犬達のように思うことはありません。
同じペットとして暮らしてはいるけど、彼らはガラスケースの中にいてその範囲でしか暮らしていないからかもなとも思います。
かわいいし大切には思うけれど、一方的に話しかけることはあっても答えは帰ってきているのかどうかさえ解りません。
嬉しそうなのか悲しそうなのか・・・?そのくらいは観察していればわからなくもないけれど。


餌だ餌だと寄り集まってくる様を見れば喜んでるとは解るけれど、ただそれだけのことです。
なんって言うのか単純にしか見ることができない相手って言うのか?


たぶんこれは私がたかがカエルと思っているからだと思います。
それはどうしようもない現実でカエル好きの人にカエルってこんなものなんですよと賢さや能力の高さを教えられても、人に類似するような感情を持ついきものだと自分が経験し、納得しない限り何百回教わっても理解できないに違いないでしょう。


こういう部分が犬に対しても同じようにどこまで尊重する気持ちになっているのかが人それぞれだから、みんなが皆同じようになりにくいのだろうと思います。
マニュアルはあれど、型にはめれば修正出来るはずもないので、人間に犬とはという意味を伝えて行くって難しいんだなと思います。


犬のリーダーになれない理由には色々ありますが、ひとつには犬が持つ複雑な感情を人が読み取ることが出来ずに【犬から好かれない人間または犬にとって都合の良い人間】になっていることを飼い主が認識していない場合があります。
これはもうスゴ〜ク多い事例で、相談される内容のほとんどがここに当てはまるものです。(~_~;)
下っ端の言う事は聞きたくないのが人情。
相手をバカにしてみていたらこれは犬も同じです。


もうひとつは、犬を信用していない場合・・・多いのは犬からの逆襲に逢った事があって心ならずも恐怖心が消えない場合です。
信じようともがいても、信じたいと願ってもどこかに恐怖が残ってしまっているのです。


または犬への理解不足によってその能力を知らないままに勘違いの解釈を起こし的外れの答えを犬につきつける事で犬自身に信頼されない場合もあります。


このパターンは結構何とかなることが多いが時間がかかります。
なぜなら修正は犬にも必要だけど殆どが人間のほうに必要なことが多いためで、人間のほうがずっと新しい情報を受け入れにくく、自分が間違っていたという認識を持ちにくいからに他ならないでしょう。
目からうろこになる人はこのパターンに当てはまる人が多いように思います。


もうひとつは犬に認められていない「自分だけリーダー」のパターン。
これが以外に厄介なのです。
犬は自分たちを理解する相手でなければリーダーとして認めることはありません。
なので、力で抑えられている場合にリーダーとして認めていると錯覚することも多いものですが、いわば会社の上司と部下の関係でしかなく、逃げられない特殊な環境の中でしか形をこなすことがない事で証明され、犬はよろびの表現を起こしません。
しぶしぶと行動したり、高く掲げられるはずの尾は下にさがり、生き生きとした眼の光はなく、決められたパターンの中だけは見た目に楽しげに振舞うがそれ以上を見せることはないのです。


つまり精神的、肉体的にフリーな状態になったとき、又は痛みや驚きによる恐怖がかかり命令に従わなければならない一線の気持ちが途切れた時には人からの命令を全て認識できている犬であるにもかかわらず、いう事をまったく聞かなくなるような状態が起きるのです。
繰り返しの作業等を嫌うような状況はこのパターンに当てはまります。


飼い主は犬が行動をこなすのでよく解釈し、楽しんでいる表現がなくても楽しんでいると錯覚を起こしドツボにはまるのでしょう。
ほんの少し犬の立場に立って見直して上げられれば気がつくような簡単なことなのですが多くの人には難しいことの一つとなるようです。


また【自分だけリーダー】の場合でも、命令に対する代償行為が食べ物やおもちゃなどの形のあるものであった場合に、作業意欲で行動し作業自体をたのしむきっかけのものではなくあくまでも目的が代償物になってしまうものがあります。


この場合には通常の作業をやらせる時に食べ物やおもちゃは必要無くこなせるようになっていますが、最後の最後にはご褒美としてモノが必要です。
逃亡したりするような犬の場合呼び込みで戻らずに何かを使わないと飼い主の元に戻らないことで理解できるでしょう。


代償行為で作業を学んだ犬は、まったくご褒美をなくした場合にかなりの長い時間(数日から数週間、数ヶ月もある)、いつかはもらえると言う期待感を失わないうちは動いてくれますが、はっきりと代償物がないことを悟ると犬の意思で出された命令に従わないという行動を起こします。

犬は執念深いのでこの長い期間代償物を使わなくても従ってくれることで飼い主に錯覚を起こさせることもよくあります。


また完全に代償行為を使って学んだ犬は年老いて理性が働かない年齢に達すると、それのみに異常に執着するようになります。

特に食べ物を代償行為で使って物事を教えた犬は、飼い主の要求がなくても、食べ物がほしくなると自分の知っている技を次々と繰り出して要求するようになるのです。
これを可愛いと感じるか可哀そうだと感じるかは飼い主の問題です。
私自身は可哀そうにと感じてしまうのであえて代償行為を食べ物やおもちゃを使わずに多くを犬に学ばせているわけです。


リーダーが群れに確約するものはサプライズではなく生きられるための食事の確保・・・つまり安全な生活です。


どちらにしても、犬と言う生き物に対しての理解の深さが関係しているもので、太古の昔、人間と友人となった最初の一見から勉強し直し、世界中で起きている先日の【認知症の老婆を添い寝して助けた犬】みたいな【実際にあった本当の話】をたくさん読むと犬への認識が少し変るのではないかと思います。


特にチームとなって行動したことから残されている記録モノなどは犬の寛大さや愛情の深さや多くのものが学べると思いますし、警察犬や軍用犬、救助犬などのように人と共に命をかけて仕事を共有している犬達から学べることはたくさんあります。手の届かない名犬の話ではないのですから。


人はそういうものを読んで感動はするけれど、実際には早々いるわけじゃないものなぁって勝手に決め付けてしまいがちです。
どんな犬にも名犬といわれるようなことができるけれどそのチャンスが偶々なかったり、誰も気が付いていなかったりするだけなんだろうと思います。

勿論そういう能力が発揮できるように育っていなければ無理な話ですけれど・・・。


うちのような極普通の特別な作業犬と暮らしていない環境でも、【やかんの空焚き】を教えるダックスもいるし、出かけている家族が帰ってくる時間がわかる犬たちも数頭います。

地震の数分前に騒ぐ子もいます。初めて行った場所から一人で帰ってきた犬もいますし(近くだけど)我家にとって後々問題が起きるような人を特定し私に教えてくる犬もいます。

子供のころに母の実家の田舎で夏休みを共に暮らした雑種の犬は東京からやってくる私が来る日時に毎回茨城のバス停で待っていました。


彼らから伝えられた信号に対して、その行動を食べ物で引き出したこともないし、おもちゃでお礼をした事もありません。

彼らがその行動をすることに求める代償は私たち家族からの感謝と決して裏切られない確約した生活と優しい愛撫なのだと思います。


おやつはおやつであるべきだし、何かの報酬にする必要はないように考えています。
おもちゃもまた遊ぶ道具であるだけで、遊ぶ相手があってこそ利用価値があると考えているのがMAGICです。


最初こそわからなかった彼らからの呼びかけが解るようになれば、へぇ〜とかほぉ〜とか感動することはたくさんあるでしょう。

彼らからの呼びかけを理解できるようになる為に少し心を広くして寛大な気持ちで繰り返される信号をキャッチし、リーダーとして彼らの心を理解し、統率して安全な生活を保障してあげていければ、こちらが教えている事は必ず彼らに伝わるし、修正できないなんってことに遭遇しないはずです。


だからやっぱり犬達のリーダーになれないと多くの修正が必要な問題は解決されません。リーダーになる努力をしていくことが一番近道だと思っています。

2009/03/06 Fri

犬は。。。

犬は食事を与え、生きられる環境を与えて有れば一人で育っていきます。
自由奔放にただ育ってしまうことでは問題だと感じる人に犬を飼ってほしいと願っています。


ただ可愛いがるだけの存在であれば良いと考える方にはきっと
小難しかったり、無理に思えることが書いてあるかもしれません(笑)


室内で犬としてではなく、人と一緒に生活し、人間の管理下にある愛すべきパートナーとして
厳しさを持って愛情深く何が大切なのかを掴み取ってもらえたらこのページの意味も出てくると感じています。

人と共に暮らすという事は犬にとって我慢しなければならないことが数多く発生します。
人もまた、犬の行動学や、心理学をよく学ばなければ

相手が何を考えどうしたら相手に通じるのかがわからなくなるのです。


犬は素直な生き物です。
でもしっかりと嘘もつくのです。
人間のつく嘘とは種類の違うものですが、可愛い嘘をつくことがあるのです。


心が通じていればきっとそんなことも笑えるようなことだと思います。
彼らの行動や心理を理解し、うまく私たち人間と暮らしていけるような良い子に育てていきましょう。


犬をいい子にできる人は、犬の心理をよく読み取れて、彼らの行動を把握できる人です。
こうした人が犬にとって最高に魅力のある人だといえるでしょう。


そして頑張って育てた犬は何にも替え難い大切な存在と変わってきます。
まるでその子がいない事が有り得ない事のように・・・。
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