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2009/04/20 Mon

Category: Quality of Life

命の誕生に向けて

犬は本来自然の中で生きていた動物だから、
先天的な障害児の場合にはたぶん自然淘汰されたと思う。
人が手をかけなければ、それが運命というものだろうし、
そのために強く次の世代に続く遺伝子だけが生き残ってきたのだろうから・・・

野生動物は、ほとんどがみな同じような姿態であるし、
その子孫を続けていく為に残酷にも見えるほどの自然淘汰がなされていく。

ライオンは、一つのプライドと呼ばれる群れで形成されているが多くはボスとなるオスを中心に
数頭の雌とそのボスの子供たちとで形成される。

このボスが挑戦者が現れ群れを乗っ取られた時に、
生存している前のボスの子ライオンたちは残らず噛み殺されるのだ。

なぜなら、群れを取られた弱いオスの子孫は新しいボスにとっては無用のものだからである。
新しいボスは自分の子孫を残さねばならず、そのためには雌が子育てをしていては
自分の子孫を続けられない為に
子ライオンは殺され、雌には発情期がすぐにやってくるのだ。

高等知能を持つチンパンジーですら、子殺しという穏やかではないことが行われることも知られるようになった。

健全な個体だってこうした淘汰が行われて自然の世界では強いものの子孫が生き残ってきたのだ。

健全でない個体は、母親に育ててもらえることもなかったろうし、
また運良く子供時代を生き延びてきても、
健全な兄弟たちのように子孫を続けていけるほど生き延びていくことは不可能だろう。

リカオンなどは群れで生活し、非常に愛情深く群れと接する為に病気にかかった仲間をも介護することが知られている。
このために、犬特有のジステンパーなどに感染した仲間がいる群れはほぼ全滅してしまうという。
そのなかで体力を充分に持ち、たぐい稀なる生命力の強い生き残った個体の子孫が
また繁栄を続けていくという誠に理に敵った自然の法則なのだ。



純血種の犬たちは、人が目的別に改良(改悪)してきた特殊な種類のもので、
野生の動物とはまた違った考えで見なければならないだろう。

犬という大きな種族の中にそれぞれの犬種が存在し、
同じ種族の犬と言う生き物なのかと思うほど、
セントバーナードからチワワまで
大きさから性質から、姿態まで違うものたちばかりだ。

このように人が人為的に作ってきた犬たちには多くの悪い遺伝子を受け継いでいるものもある。
形を均一化していくためには当然のことといえるだろう。
人の手が無いと自力で出産できない犬種や、
明らかな遺伝疾患を抱えると知られている犬種でも、
多くのファンシャーの努力で今日も続けられてきている。


生き物本来にある子供を数多く生むことは
妊娠初期に発生する奇形や疾患を抱えるもの(先天性疾患)
が生まれてくる自然発生の確率を生き残る為に考慮し含めているのだが、
こと遺伝に関する諸問題については多くのブリーダーが語り合わない。

これには一つに先天的な異常が遺伝子によるものなのか、
自然発生に値するものなのかの判断が非常に難しいからだと考えられるだろう。
現在でも多くの遺伝疾患と目されるものですら、
その個体がキャリアしているかどうかの判断を下せる機関は少ないはずである。
いくつかの遺伝疾患については海外の機関で調べる事ができるものもあるが、
調べられるものにはまだ犬種や疾患によって限界がある状況だ。

最近では、タブーとされていた情報が公開されるようになってきてもいるが、
犬種によってはまったく公開されない物も多くある。

人為的に作られた犬という一つの大きな枠の中に存在する犬種群に、
定められた犬種標準に乗っ取って、
必要のない、もしくは、外れたものには
厳しい形ではあるが淘汰という方法が脈々と続けられてきていた。

ただしこの淘汰という方法が、生物学上、存在するに値しない命であったかどうかは疑問の残るところだ。
一つの定められた形に固定するには多くの努力と忍耐と、
その後ろに隠された多くの失われなくても良かった命が失われてきている。
勿論淘汰されるべき命もあったこととは思うが・・・

命という視点から考えるのか、犬種の確立、存続を考えるのかによって
繁殖意図は大きく変わってくるのだと思う。

スタンダード(犬種標準)に書かれている失格事項の多くには、
何故それが問題なのかを書かれているものは少ない。
それはその犬種に関わるブリーダーたちが経験を通して学んでいくべきことなのだろう。
できうるなら、多くの情報を学べる機会が増えることを願っている。

繁殖は考えようによって命というとてつもなく重い、
また逆に簡単に軽んじられるものを生み出す行為である。

人類は最高の知能を持つ、まさに神の様な高等動物であるだろうが、
だからこそ、命あるものを大切にしていく心だけは忘れて欲しくないものである。

命の誕生は本当に素晴らしいものだ。

この世に生を受けたもの達に関わったものにはたとえそれが犬であろうとも、
大きな責任が覆い被さってくると考えていたい。
わが子に関わる親のように・・・
そう考えられたとき、初めて命の重さを感じられる気がする・・・

2009/04/20 Mon

安楽死・最期の選択

犬を愛する、慈しむ・・・色んな形や方法があるのだと思う。
どれが正しくてどれが間違っていると誰にも決められないのかもしれない。

犬の命の重さを痛感する時・・・・それは彼らとこの世で一緒に生きられなくなる日が近づいている時ではないかと思う。今は獣医医療も日々進歩し、人間並みの治療が受けられるようにもなった。保険がきかない分確かに高額ではあるが、それでも今までは手をこまねいていた病気が治せるようにもなってきた。

ただ・・・人間も同様にどうしても繋ぎとめて置けないものがある。

その原因がどんなことであれ、どんなに泣き叫んでも、捕まえておくことができなくなった時に、一緒に生きた人間は大きな決断をしなければならないときが来るのだと思う。

犬には唯一人には許されてはいない『安楽殺』という方法が取れる。幸か不幸か、犬は法律的には物であるからだろうか・・・私があえて通常良く使う『安楽死』と言う言葉を避け、『安楽殺』という言葉を使うのには、私なりにその行為をどういいわけをしても自分から死ぬという意味ではなく他のものが命を止めるという意味だと思うからだ。安楽殺にもその手段に行き着く前に人それぞれ状況様々ではあるが、
日本では
飼い主がそれを望まない限り、獣医さんのほうからそう言う決断を下すべきだという話は少ないだろう・・・
それは、医療に携わるものは、決してあきらめてはいけないからだと思う。最後まで命を繋ぐ最善の方法を努力をする・・・そういう獣医さんが多い。
それがたとえ相手が動物であっても医療に携わるものの使命なのだとも思う。

ただ、手遅れで苦しむ姿をどれほど長く続けさせるべきかを飼い主は自分自身で判断しなければならない。
これほど辛くなかなか決断できないことはこの世にあるのかと思うほどだ。

薬物を使用しても、もう押さえられない発作が置き続けたり、生きていくために必要な器官が壊れてしまって再生する事が不可能だったり、体中に傷ができてしまうことすらわからなくなって暴れ続けたり、痛みに耐えかねて苦しんでいたり、呼吸することすらが苦痛であったり・・・

それが心臓が止まる時まで続くのであるなら・・・最後の選択として考える方法ではないかと考える・・・・

諸外国では、予後不良(生きる事が不可能)の場合に限り、動物が今後今以上に苦しみ続けることが解っていると、その苦しみにたどり着く前に楽にしてやることが多い。

これは競馬馬が骨折するとその場で安楽殺させることに似ている気がしてしまう。

昔、『テンポイント』と言う名馬がいた。誰もが2世を期待した名馬だったが、骨折の不運にあってしまった。競馬ファンのみならず、多くの人に愛された馬だっただけに、関係者は万が一への望みを捨てずに必死で治療をした・・・今までだって、決してそういう事で助かったこともなかったし、くるしませる結果が待っていることはこの世界では常識だった。でもその時、彼に関わる人たちや多くのファンたちは、彼に生きることを期待したのだから・・・
もしかしたらという一縷の望みを託して・・・結果は、彼に地獄の苦しみを与えただけだった。

その後、どんな名馬でも骨折の不運に見舞われた馬たちは、その場でその生涯を人の手で閉じさせることになった。ライスシャワー、サイレンススズカ・・・そして人の目に触れずに多くのファンももたずに逝った馬たち・・・
これは関係者の馬に対する最後の愛情なのだと思う。手塩にかけ育て育成し大きな晴れ舞台に立てた名馬といわれる馬たちは生まれてくる多くの馬たちの最頂に君臨する。誰が骨を折った位で死なせたいと思うものか・・・

でもサラブレッドは3本の足では自分の体重を支えられない。体をつるして体重を支えようとしても残ったひづめが腐り、敗血症を起こし、苦しみもがいて死んでいくしか方法が無いのだから・・・

愛する友が死の淵で苦しむ時、私自身はその子の状況がもし自分だったらどう言うのだろうかと考える。
この先に何かもっと楽になる方法はないのかと考える。
その方法が無くなった時、苦しみしかなく、やがて来る死を待つ間中
痛みや苦しみに体や精神をさいなまれるなら、深い深い眠りに付かせてやることは最後の愛情だと思う。

人間は哺乳類いや全ての動物の中で最高の知能を持つ最高の生き物だから、だから他の生き物の命を絶って良いとは思わない。人として正しい判断として苦しみから解放する最後の手段として行うなら、それは罪ではないのではないかと思っている。

私自身も2回安楽殺の方法を選んだ。ただその方法を実行する前に私の愛する友達は、天国に昇っていってしまった・・・もっと早く決断するべきだったのか、あの子達を思い出すたびにこれでよかったのかと思いをはせる時が有る・・・人には尊厳死と安楽死とを選ぶ権利があるとかないとか・・・様々な論議もあるようだが、家族に愛されている犬から、何を一番求められているのかを判断するのは飼い主以外の誰でもない。



願わくば、安楽殺という方法は、飼い主自身が楽になるために行われるのではなく、犬自身のために行われる方法であって欲しいと願っている。

犬の苦しみを取り去ることで選ぶべき選択であり、介護する飼い主が犬が頑張っているのを見るに忍びなくて早まった決断を下すのだけは避けて欲しいと願っている。
自分だけで判断を下さずに信頼できる獣医さんの助言を参考にし最後の決断をして欲しい・・・。

2009/04/20 Mon

どこまで頑張るか?

 キャンディーを失ってみて・・・ 

病気の犬を抱え、獣医さんにかけて治療して行く時に直らないとわかったらどこまで頑張るべきなのだろうか?生まれながらに障害を持っていたらどこまで頑張ったら良いのだろうか?
判断は飼い主が決めることだが・・・

私自身が経験した中で、病気の子が生きようという気持ちがあり、その病気自体が治療によって治らなくても、小康状態を保てたり、または少しでも介護してあげることで楽な状態で生活していける範囲であるうちは、望みを捨てたくはないと思う。

病気の種類によっても、障害の状況によっても頑張る範囲が違ってくるのかもしれない。

私個人は、もう限界だと思うときが来るまではできるだけの事をしてやりたいと思っている。
ただそのできるだけのことというのは、手術や治療を受けることだけではない。受けないことを選ぶ場合だってある。できるだけのことというのはその人それぞれに違うと思うが、これでよかったねと思う事ができるような介護だと思う。

犬はいつも飼い主を必要としている。だからできるだけそばにいてやりたい。不安や悲しみから少しでも救ってやりたいと思う。

同居の母が亡くなった時、とても後悔が残った。
治らない病気なら・・・家に連れて帰ってやればよかったのにと思った。
血小板や赤血球を輸血しないと生き続けられないと解っていたからそれは病院でしか受けられなかったから・・・通院することはもうできなかったから・・・

酸素が無いと呼吸が苦しくて・・・なかったらもう駄目だったから・・・

病院にいてよかったのか悪かったのか今も判断はつかない・・・生きていた時間が母にとってあれでよかったのか、もう聞くことはできないから・・・

平行して病気と戦っていた愛犬は、自宅介護してきた。眠れない日が何ヶ月続いただろう?
何時起こるかわからな発作と、止められるはずの薬が効かなくなった時の不安と戦いながら、眠り続けるあの仔を見続ける自分との戦っていた。

呼吸が苦しそうで少しでも楽にしてやりたくて、酸素ボンベも家に持ち込んだ。酸素室も作った。

薬の影響で異様に食べ物を欲しがるあの仔に少しづつ気がまぎれるようにしてご飯を上げた。
毎晩交替で寝ずに監視した。

不安だろうと必ずあの仔のそばに誰かがついていた。病気になってからあの仔は1人になることはなかった。薬を使っても痙攣が止まらなくなって、高熱が下がらなくなって、体中を冷やす為にアイスノンや氷嚢を作り溶けては取り替え間に合わなくなると夜中でもコンビニに走った。

口や肛門から異様な分泌物が出るようになったとき、もう限界だと思った。
こんなに苦しんでいるのに、生きていて欲しいと願いのはわたしの我が儘だと思った。

その時に家族みんなを呼んで、これが続くなら安楽殺を選ぼうと相談し全員一致で判断を下した。

発病してからの半年間、壮絶な戦いに入ってからの3ヶ月間家族もあの仔も頑張れるだけ頑張ったと思う。その戦いの様を良く知っていた獣医さんが最後にもう一度だけがんばらせて見ないかとの提案を受け入れて奇跡の幸せな1ヶ月を過ごした。

あの仔が逝ってしまった時に私自身は体はぼろぼろだったけれど、ゆっくりお休みといってあげられた・・・
最終的に安楽殺にはならなかったが、発作を止める為に強い麻酔をかけに病院に行き、私の腕に抱かれたまま麻酔を入れた。あの仔の体が急に重くなってゆっくりと頭をたれた・・・

様子を見てもらうために入院させたが、麻酔が切れそうになると発作が起きるので眠ったまま麻酔が追加され続けた。

だからあの仔の心臓が止まってしまった時、あの仔の記憶は私に抱かれたままで終わっていると思う。
私にとってあの仔とのサヨナラの仕方は、安楽殺に等しいものであった。

痙攣し続けながらその恐怖と戦わせながら逝かせなくてよかったのだと思う反面、大好きな家で私に抱かれながら逝かせてやりたかったという思いとが今も交錯し続ける。

どんな形で頑張っても、きっと何かしらの後悔という文字は消えることはないのだろう。
後悔しなくてはならないならできるだけそれが少なくなるように自分の気がすむ方法を取るのがいい。

どこが限界かを一番わかるのは他でもない一緒に暮らし続けたあなた自身なのだから・・・

2009/04/20 Mon

Category: Quality of Life

犬の安楽死・尊厳死について

尊厳死とは・・・余命いくばくもないとわかった時から、積極的な治療をしないことである。

例えば、手遅れだとされるガンが見つかった場合に、
手術をしないで、苦しみや痛みを止める治療はするが、
抗がん剤などを使った治療を行わないことだ。


多少のリスクは合っても徹底的な検査をし、
駄目だとわかっていても手術したり、
万に一つに望みをかけて『できる限り』の事をする場合もある。
これも一つに愛する友への大きな愛情の表れである。

これとはまったく逆に、
必要以上の痛みや恐怖を感じさせないという選択方法である。
そのための治療は行うが、根本を直そうとする治療をしないのだ。

直るものなら努力するべきだし、愛するものへの大きな愛情があればこそ
多少の痛みや苦しみは頑張らせたいと思うのが本音であろう。

犬ではなく伴侶であったり子供であったり
親であるなら、みな最善を尽くし頑張らせるのだと思う。

ただ、その望みが無かった時に
痛みや恐怖が伴う事を『痛い』『辛い』『苦しい』と言えない
犬という最愛のパートナーにどこまで求める事ができるだろうか?

私自身が思うだけかもしれないが、
犬は・・・愛するパートナーはたぶん、たぶん、いつも注射をする獣医さんのもとにいるよりも
大好きなママやパパのもとにいる事のほうを望むのではないだろうか?

いつも寝そべるベッドの上で、
いつも一緒にいる友を眺め、
愛する人にやさしく声をかけられ、撫ぜてもらう事を望むのではないかと思っている。

多少体に良くなかろうと、食べたいものを食べ、甘えるだけ甘えて
そして旅立てるなら・・・

もし自分だったらきっとそれを望むだろうから・・・

いまや獣医学は素晴らしい最先端の技術を伴い、
昔は治らなかった病も多くは治るようになっている。
でもその中にも人と同じように、
どうしようもないものもあるのだ。

延命治療ではない、
その子の痛みや苦しみを少しでも押さえる為の治療なら
どんな事をしてもやってあげたい・・・

でも私が・・・その子に少しでも長く生きていて欲しいと願う事が、
痛みや苦しみを伴うのなら求めようとは思わない・・・

人の末期がんの患者の為にあるホスピスと言う所のように
最愛の子の尽きる命であるなら・・・

この腕の中で笑顔で心配をさせずに逝かせてやりたいと願うのである・・・

2009/04/20 Mon

クオリティーオブライフ

クオリティーオブライフ・・・質の高い生活という意味。

治らない病魔に冒された愛犬と面と向かった時に、
その子がプライドを守れ、苦しみや辛さを少しでも少なくでき、
出来るだけいつもの生活に近く暮らしていけるようにしてやることではないかと思う。

犬は基本的に飼い主に従属する動物で、
誰かに守ってもらいたいと考える生き物だ。
群れ族で人間と共に生活を送れるのはその本能によるものである。
人間と非常に近い感情を持ち、愛されたがっている友人を
天国の神様が呼んでしまうなら、
せめてできるだけその子にとって一番良い状態を保ってやりたいと願うのは、
その子を愛するものにとって極自然なことだ。

ある日突然、振り向いたら亡くなっていたなんてことはそうあるものではない。
多かれ少なかれ病魔に冒されている兆候はあるものだし、
気がつくか気がつかないかは、飼い主の観察力次第だと思う。

問題は、病魔に冒された犬をどのように治療し、
その命を永らえさせようと努力するかという事だろう。

色んな方法が今の獣医学を持ってすればあるものである。
ただ何をどう選び、どのように活用していくかは飼い主の判断で決まるのだ。



私の大切なキャンディーが最初の発作を起こした時に、
多くのことを考えた。
彼女の命の危険を冒してまでも徹底的に検査をし、病名を明らかにする方法を選ぶか、
対処療法を選ぶか、どちらかにしか答えはなかった。

私には今も正しかったかどうかはわからないが、対処療法を選んだ。
治療がキャンディーにとって彼女が生きていく気力を失わせるようなものだけは避けてきた。

あの仔が、生きたいという意志を持つように生活させてあげる事が
唯一私ができる『出来る限りのこと』であったと思っている。

発作を押さえる為の薬の影響で立ち上がることもできず、
焦点の合わない目で宙を見る・・・
食事も取れないような状況を私は断念した。
独断的だったのかもしれないが、決してキャンディーはそれを望まないと思ったからだ。

投薬を切って、信頼できるサプリメントを使い約4ヶ月の間、
発作を起こすことは一度もなく時が流れた。
たぶんこの時に病魔はキャンディーの体を蝕み、限界まであと少しと進んでいたのだろうと思う。

恐怖の日はあるとき突然やってきた。
それは一瞬の内に納まる軽いものだったが、前から決めていた獣医さんに受診した。

キャンディーにとって何が一番必要で、どうしてあげる事が大事なのか、
この時に悟ったのだ。
キャンディーの体質を考慮し、使える薬、合わない薬を手探りで探し、
投薬量も細心の注意を払いながら続けた。

獣医さんの協力がなくては決してなしえなかっただろうと思う。
キャンディーは稀な体質だったようで、通常なら問題なく効果のある薬は
ほとんどが駄目になっていた。

普通なら寝たきりになってしまうような事は決してない薬が、
キャンディーの体に入るとそう言う現象を引き起こしたのだ。



何とかいつもの生活が存続できるように勤めてきた。
それは私たちが望んだというよりも
キャンディー自身が望んだのだと思っている。

あの仔に限界がくる日まで、それまでは好きにさせてやりたかった。
庭で走り回っても、おやつを欲しがっても、
ボールを投げて欲しいといってきても、
サークルから飛び出しても
できるだけ彼女の意志を尊重し、答えてあげてきた。

あれもこれも駄目だともういえなかった。
確かに一日でも長く一緒に生きて居たかったけれど、
彼女が望むことを果たしてやらない事が
大きな重罪のように思えた。

極力病院に行く回数も減らし、あの仔にかかるストレスだけでも減らしたいと願って行動していた。
体に影響の出るような検査はできなかったがそれでもできうる限りの検査をし、
もうそう長くないことが解ってからはなおさらだった。



発作重責にならないように、寝たきりにして生き長らえさせることを選んだら、
もしかしたらもっと一緒にいられたかもしれない。
入院させて、集中治療にかけていたら・・・
脳外科の手術を受けていたら・・・
もっと他にいい薬があったのではないか・・・

後悔はどんな時にも尽きないのだ。

でもこれだけはいえる。
キャンディーは質の高い生活を送って天国にいけたのだと・・・
あの仔が望む全てのことを受け入れられたことだけは今も
後悔の中に一つの勇気となって生き続けているのだから・・・
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